2006年02月22日

野党が劇場型を狙ってどうするのか?

「堀江メール」問題で注目された党首討論が行われました。
一方で、ライブドアの熊谷取締役の逮捕を含め、堀江前社長らの粉飾決算容疑による再逮捕も行われました。
ライブドア問題はいろいろな意味で新たな段階に入ったと言えるでしょう。

時間切れ終了に、民主党の肩透かし。
残り10分を切ってから問題を切り出し、国政調査権の発動を求めただけに終わった今回の党首討論に対する評価です。
おまけに、民主党内部の分裂も漏れ聞こえてきており、くだんのメールは国会内の政争の具ではなく、民主党内の政争の具に使われているのではないかとの声すら出ている始末です。
当の永田議員はホテルにこもりっぱなしで、このままでは「ひきこもりの狼少年」というレッテルを貼られても仕方がないのではないでしょうか?

ちなみに僕はメールの真贋や、金銭授受があったかどうかの判断を現時点でするつもりはありません。
また、ライブドアと政界をつなぐお金の流れについては明らかにされるべきだと思っていますし、民主党がそれを追及すること自体について批判したいわけでありません。
ただ、こんなお粗末な劇場を見るくらいならば、しっかりとした政策論争を展開してほしいと願っているのです。

ニュースではほとんど取り上げられないと思いますが、実は前原代表はメール問題の前に2つ質問をしました。
ひとつが公務員削減を含む行政改革問題で、もうひとつはモラルと学力の低下を中心とした教育問題でした。
景気回復が本格化したとはいえ、開かれた健全な経済の育成を目指し、日本の長期的な国際競争力を高めるためには、どちらも大変に重要な問題です。
しかし、2つの問題についての前原代表の質問はきわめて不十分なものでありました。
小泉総理に長々と持論を述べさせるばかりで、その矛盾や問題点を指摘したと言えるものはほとんどありませんでした。

確かに昨年の総選挙で、民主党は小泉劇場の前に惨敗を喫しました。
だからといって、弱体化した民主党までが「劇場型」を演出しようとしてどうするのでしょうか?
しかも、このままいけば相当にまずい脚本と演出だったということになってしまいます。

大きく敗れたとはいえ、「刺客や郵政1点張りの選挙のなかで、さまざまな重要政策を訴えようとしていたからこそ民主党に投票した」という人たちだってたくさんいたのではないですか?
そういう有権者の期待を裏切るようなことはしてほしくないものです。
朝日新聞の星浩編集委員が、岡田前代表の効果で衆院予算委員会の空気が引き締まってきていると書いていました。
「政治家が真面目であることが問題であるような言い方が世間にあるが、僕には理解できない。政治は真面目なものですよ」
岡田前代表の言葉をしっかりと受け止めてもらいたいものです。
posted by SNR at 20:21| Comment(4) | TrackBack(27) | 政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月20日

社会全体が性格障害になっていませんか?

滋賀県長浜市で、5歳園児の若菜ちゃんと迅くんが刺殺された事件。
またもや小さい子どもの命が奪われることになってしまいました。
鄭永善容疑者は自分と子どもがなじめないのは、他の園児たちのせいであると恨みを募らせていたようです。

このように問題の責任を他人に転嫁して回避することを「性格障害」と呼ぶのだそうです。
その反対に、何でも自分が悪いと思い込みすぎる症状を「神経症」と呼びます。
6年ほど前に中国から日本へやってきた容疑者は、特に日本語や日本の習慣という壁がたくさんあり、そこから周囲との認識のギャップが生まれ、徐々に精神的に追い詰められていってしまったのでしょう。
ただ、このケースを特殊なものとして片づけてしまうのはいかがなものでしょうか?

子どもたちを取り巻いている環境を見ると、殺害に至るまでの極端なものは少ないにしても、多かれ少なかれ周りの大人たちが「性格障害」に陥っているケースは多いのではないでしょうか?
いじめ、不登校、学級崩壊、学力低下等々。
ここ数年間、子どもを取り巻く問題の多くで親と学校の対立や責任回避が見られたのは、みなさんの記憶にも新しいことだと思います。
本来であれば、子どもの教育に責任をもち協力し合っていくはずの親と学校が互いに責任回避した結果、その皺寄せはいちばん弱い子どものところへと向かってしまうわけです。
しかも、この問題は一過性のものではありません。
親が性格障害であれば、ほとんど例外なく子どもの発育にも影響が現れ、「性格障害」か「神経症」の子どもを育てていくことになるわけです。

近頃、社会では「責任」という言葉をよく耳にするようになりました。
政治家の責任、企業の責任、学校の責任、病院の責任等々です。
こういう言葉だけを見ると、日本も責任を自覚した素晴らしい社会になっているように聞こえるかもしれませんが、現実は耐震偽装の問題に見られるように、できる限り責任を回避しようとする姿ばかりを見るような気がします。
社会全体が「性格障害」に陥り始めているのではないかと不安になってきます。

「責任」という言葉が氾濫して「性格障害」が蔓延したのでは本末転倒ではないですか?
だからといって、僕は「責任」が重要でないと言っているわけではありません。
責任ある人たちがお互いに批判しあうのでなく、協力し合えるコミュニティづくりが必要なのではないでしょうか?
今回の事件に見られるように、これからますます外国籍の人たちの数は増えていくでしょう。
しかし問題は彼らが外国籍であることよりも、むしろ協力をし合っていけるようなコミュニティづくりにある。
そんなふうに今回の事件を見ることはできないでしょうか?
posted by SNR at 18:59| Comment(5) | TrackBack(1) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月17日

おカネの話題でしか盛り上がれない軽い国会なのか?

民主党の永田寿康議員による爆弾発言が物議を醸していますね。
ホリエモンが自民党武部幹事長の二男におカネを振り込むように指示した社内メールが、あるとかないとか。
もちろん事実関係の解明は行われるべきですが、果たしてこれは国会でいま議論されるべき大事な問題なのでしょうか?

「くどいようですが現代日本は軽い国家です。これを正視しなければいかなる議論もカラブリだと思います。たとえば、権力といっても権力ではない。自民党だって、握っているのはせいぜい利権というべきものといえるほどのものであって、権力ではない」

以前アップした「軽い国家の重い病?」の繰り返しになりますが、これは司馬遼太郎が35年以上前に書いた「日本史から見た国家」のなかの一節です。
「日本という国家にあるのは、せいぜい利権だけだ」というのは、今もあまり変わっていない現実なのではないでしょうか?
事件化した防衛施設庁の官製談合だけでなく、特殊法人への天下りは2万人を超えているといいます。
採算性だけでなく安全性まで疑問視されていたはずの神戸空港が開港しました。
BSE問題の自民党調査団がわざわざ同じ施設を調査しに行った目的は、民主党の主張をつぶすことだったようです。
そして、今回の「ホリエモン・メール」問題です。

ここ最近の政治はいったい誰の方を見て行っているのでしょうか?
おそらく政治家のみなさんは、みんな一様に「国民の方を見ている」と主張するでしょうが、いちばん大事なことは「国民によって構成される国家」を見て政治を行うことなのではないでしょうか?
上に挙げたようなことは、一部の利権のために行っていることとしか思えません。

「軽い国家どころか、国家という体をなしているかどうかわからない。…単に税金をとるだけの機関という感じの国家というものでしかないのではないか。ここにはきわめてたくさんの自由があるけれども、義務というものはほとんど銭金だけで済まされている。つまり税金だけでなりたっている国家になってしまった」

「銭金だけの軽い国家」」とは、単に税金をとられる国民の意識だけではないようです。
政治家や官僚だけでなく、最近は社会を揺るがすニュースすらも、おカネが絡むものがあまりに多いような気がしてなりません。
日本で国家や市民意識がしっかりと芽生える可能性については、司馬遼太郎も実は悲観的な見方をしています。
再び戦争でも起こらない限り、地方や企業を越えるような帰属意識にとどまるのではないかと考えています。

しかし、あれから35年の歳月が過ぎて、日本でもようやく「国家とは何か?」とか「市民社会とは何か?」という議論が芽生えて始めていると思います。
国会議員が利権やおカネの問題しか興味がないのであれば、次の選挙で「本当に国家のことを考えている議員」に投票すれば良いわけです。
トリノオリンピックの影で、「軽い国会」が行われていることも忘れてはならないのでしょうか?
posted by SNR at 19:56| Comment(4) | TrackBack(6) | 政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月15日

「ただのチョコレート屋」のまなざしで

トリノオリンピックで日本選手がなかなかメダルをとれませんね。
女子モーグル、スキーのジャンプ、スノーボード・ハーフパイプに、スピード・スケートと、あと一歩というところまでは行くのですが、なかなか期待のメダルには手が届きません。
残念だなと悔しい思いをしながら、夜更かしをしている寝不足さんも、たくさんいるのではないでしょうか?

「ただのチョコレート屋よ」
これは数年前に映画にもなったジョアンヌ・ハリス原作の『ショコラ』に登場する主人公ヴィアンヌの台詞です。
放浪のすえ村にたどり着いたヴィアンヌ母娘は「チョコレート屋」を開きますが、最初はなかなか受け入れてもらえません。
そんななか、村の老婆アルマンドが「でもね、あんたがきてくれて、あたしたちには楽しみができたのよ」と言い、それに対してヴィアンヌが「ただのチョコレート屋よ」と返したのです。

閉鎖的なフランスの片田舎の村にやってきたヴィアンヌは、「すべての人を幸せにしてしまう魔法のチョコレート」で村人のこころを解きほぐしていきます。
「わたしには、お客全員の好みがわかる。これはちょっとした才能、占い師がお客の手相を読む技のようだ」と述べているように、彼女は人々のこころの機微を読み人生を愛する喜びを与えていきます。

国は変わりますが、トリノが位置しているイタリアのピエモンテ州も、チョコレートの有名な産地です。
名物の「ビチェリン」をカフェで飲む姿が、テレビでも放映されていますね。
もうひとつ、トリノの南方に位置するブラという村は、「スローフード」運動の発祥の地でもあります。
あまりにスローな会場の建築ぶりから、オリンピック開幕前には開催を危ぶむ報道もありました。
そのほかにも、地下鉄が半分しか完成していなかったり、交通機関の不足などから会場間の移動に時間がかかったりなど、不満の声も出ています。
しかし、それはあくまでも日本の基準から見た不満であり、現地の人たちは「どれ、そんなに慌てないで、ゆっくりショコラでもいただきながら、のんびり見ていなさい」という雰囲気だったのかもしれません。

「あたえることには限界がない。それは人生の初歩的なレッスンで学べる真実ではないだろうか」 
ふたたび『ショコラ』に戻りますが、温かいもてなしで人のこころを解きほぐしていく「ただのチョコレート屋」のまなざしが、この言葉にあふれていると思います。
もちろん、選手のみなさんには全力を尽くしてがんばってほしいですよ。
でも、過度な商業主義やメダル至上主義に陥ってしまうとしたら、せっかくの平和の祭典を台無しにしてしまいます。
競技を見ている側の我々はチョコレートでもつまみながら、「何かを与え合い、共有するような気持ち」も持って観戦したいものですね。
posted by SNR at 17:55| Comment(12) | TrackBack(4) | 趣味・スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月13日

「記憶を失った街」は「こころを失った街」?

2月11日に、表参道ヒルズがオープンしました。
80年近くも表参道の顔であった同潤会青山アパートが取り壊され、そこに商業スペースと住居スペースの複合施設が建てられたのです。
同潤会アパートの取り壊しが議論されたことは、みなさんの記憶にも新しいことでしょう。

今回の設計を行ったのは建築家の安藤忠雄さんです。
安藤さんは同潤会アパートを同潤館という形で再現しただけでなく、本館内部のスロープは表のケヤキ並木と同じ勾配に、建物の高さもケヤキ並木を越えないようにすることで、これまでの景観とのつながりを維持しようと設計しました。

かねてから僕は東京には街づくりというコンセプトがまるでないと感じていました。
再開発が行われるたびに、バカのひとつ覚えみたいな塔が次々と建っていく様子に違和感を覚えていました。
別に金太郎飴のような街並みをつくれというわけではありません。
その街がもつ個性や価値というものを大切にした建物づくりが行われているようには、どうしても見えなかったのです。

2月10日放送の『ニュース23』における、筑紫キャスターと安藤さんの対話はなかなか興味深いものでした。
上述したような問題意識が繰り返し述べられていただけでなく、安藤さんが表参道ヒルズで実現したかった「風景を通じた現在と過去の対話」を行うことの大切が伝わってくる内容でした。
また長寿社会に向かっている今日だからこそ、単に街の機能性を追及するだけでなく、そこに長く住む楽しみを重視すべきだという主張もうなずけるものでした。

話が少し飛躍するようですが、街を次々と無計画につくりかえることは、その街に暮らした人の記憶やこころを奪っていくのと同じようなことだと思います。
なぜ我々は敢えて街並みから「記憶やこころ」を払しょくしようとするのでしょうか?
海外旅行などに行けば喜んで歴史的街並みを見物する人たちが、なぜ自分たちの街並みをいとも簡単に捨ててしまうのでしょうか?
自分たちの「記憶やこころ」を軽んじるようなことをするのでしょうか?

もちろん、木造建築物が焼失や腐敗に弱いこともひとつの要因でしょう。
あるいは、古い建物を維持したり、再現したりするコストが高いことも要因のひとつでしょう。
しかし、そこで失われる我々の「記憶やこころ」にもうちょっと配慮をしても良いのではないでしょうか?
少なくとも耐震基準に満たない無価値なマンションを乱立させるよりも、はるかにマシなことだと思います。

丸の内にも三菱一号館の再生計画があるようです。
街の持つ「記憶やこころ」を重んじる機運が高まることで、単に耐震基準を満たしているだけでなく、後世にも我々の「記憶やこころ」を伝えていけるような建物づくりが進むことを願います。
posted by SNR at 21:30| Comment(9) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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