2006年05月25日

本質からズレていませんか?

みなさんもご承知のように、このブログでは「本当に大切なこと」というテーマで繰り返し、さまざまな記事を発信しています。
その一方で、ものごとの本質をつかむことが、なかなか容易でないことも承知しているつもりです。
それにしても、ここ数日間のニュースを見ていると、大きな疑問を抱きませんか?

まずは、大阪などの社会保険事務所で4万人以上に年金納付の不正免除を行っていたという事件です。
いわゆる「年金納付率」偽装という話です。
村瀬長官が出した「『国民年金の収納率』緊急メッセージ」という文書の存在が明らかとなり、組織防衛のためにノルマ2ヶ月以内に2%アップを課していたことが判明して大騒ぎになったようです。
年金制度に対する信頼回復こそが最重要課題であることは、国民の目からは一目瞭然なのですが、社会保険庁内にいると、どうやらその本質が見えなくなるようです。

大手銀行の3月期決算が発表され、大手銀行6グループはバブル期を超える過去最高益を記録しました。
特に三菱UFJの連結最終利益は1兆円を超えてトヨタに迫る勢いだったわけですが、与謝野金融担当相のコメントは「決算は良くなってきているが、我々にしてみればまだ半人前だ」というものでした。
すでに指摘されているとおり、今回の過去最高益の背景には、不良債権処理に積んでいた貸倒引当金が景気回復のために不必要となった戻り益の存在がありました。
つまり企業業績が回復したことで貸し倒れが減った分だけ、利益となって戻ってきたわけで、これは銀行の経営努力の結果ではありません。
それだけでなく、投資信託などの金融商品の窓販で得た手数料収入も、利益をかさ上げする大きな要因でした。
そもそも、銀行が本業として行うべき預金と投資信託は競合商品です。
多くの預金者がゼロ金利状態に業を煮やして、投資信託などの金融商品へと乗り換えたわけですから、そこで手数料が増えても本業による利益ではありません。
銀行利用者に対して本業でサービスを行うことが最重要課題であることは、利用者の目からは一目瞭然なのですが、金利変動に伴うリスクに怯える銀行は、本質をきちんと理解できているのでしょうか?

最後に、教育基本法の前文をめぐり、「我が国と郷土を愛する態度を養う」という政府案と、「日本を愛する心を涵養(かんよう)する」という民主党案が対立しており、この点が象徴的に報じられています。
いわゆる「愛国心」についての議論ですが、今国会内で可決に持ち込むか、会期延長を行うのかといった、政治的駆け引きの材料に使われているようにしか見えません。
確かに、国民が自らの国を愛せないような国家は不幸ですし、そんな社会の活力は徐々に削がれていってしまうでしょう。
しかし、だからとって「愛国心」とは教育で強制するようなものなのかというのが、反対論者たちの意見です。
しかし、それ以前の問題として、国家の成り立ちや政府の仕組みについて、我々はどれほどしっかりとした教育を受けたというのでしょうか?
しっかりと理解していないものを、ただやみくもに愛せと言われても、そこに健全な民主主義が成立しうるはずがありません。
日本という国の成り立ちや仕組みを教えることが最重要課題であることは、国民の目からは一目瞭然なのですが、国会議員の先生たちは本質を理解できていないようです。

以上3つの問題について、みなさんの目にはどのように映っていますか?
posted by SNR at 15:50| Comment(8) | TrackBack(14) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月18日

日本は世界の最貧国なのか?

バブル崩壊後の長い停滞があったとはいえ、景気回復が軌道に乗りつつある日本に、何てことをいうのか?
こんな意見もあるかとは思いますが、以下のようなマザー・テレサの言葉を聞けば、少しは納得していただけるかもしれません。

ひとりぼっちの寂しさと
誰からも必要とされないという思いは
もっとも恐ろしい貧困である


年間の自殺者が3万人を超えるような国が、果たして本当に豊かな国と言えるのか?
これが本日のテーマだったので、敢えて「最貧国」などという過激なタイトルを使ってみたわけです。
我々はこれまで何度も、「貧困に苦しむ国々で、毎日どれほどの子どもが栄養失調で死んでいくのか」などいう話を聞かされてきました。
「そういう子どもたちもいるのに、なぜ命を大切にしないのだ」と言われて、多くの人が頭ではその意味を理解できると思います。
しかし、それでも我々はこの物質的な豊かさを前に、人と人との絆の大切さを、つい忘れがちになってしまうのです。

確かに、人間は誰しも究極的にはひとりです。
ひとりぼっちで生まれ(双子の方もいらっしゃるでしょうが)、ひとりぼっちで死んでいきます。
だからこそ、本当は人との絆に無限の価値があるのですが、なかなかそのことに気がつけないため、多くの不幸な事態が生じてしまうのでしょう。

こんな話をしていると、ますます悲観的になってしまいそうですが、ちょっと視点を変えて、こんなふうに考えてみてはいかがでしょうか?
「捨てる神あれば拾う神あり」
日本人なら誰もが知っているありきたりな言葉ですが、一神教の国の人々から見たら、ずいぶんといい加減な考え方なのでしょう。
しかし、この言葉には、「たとえ一度失敗しても、それですべてが終わりというわけではない」という大切な価値観が含まれています。

このように考えてみると、日本古来の「八百万(やおよろず)の神(かみ)」という考え方は、現代社会にこそ必要な考え方なのかもしれません。
すでに述べたように、昨年まで7年連続して自殺者は3万人を越えており、「格差社会」などという言葉もすっかり定着してしまった感があります。
でも、一生懸命やって失敗しても、それは失敗ではありません。
そこから前に進まなくなったとき、初めてそれは失敗となるのです。

国会で現在多議中の教育基本法の「愛国心」などという概念よりも、日本社会に古くからある価値観を生かすことの方が、今の日本にとって本当は大切なのかもしれませんね。
posted by SNR at 20:10| Comment(5) | TrackBack(3) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月12日

言霊の行方

GWも終わり1週間が経とうとしています。
連休中にもあちらこちらで殺人やら何やら、物騒な事件が起きて連日報道されていましたね。
特に平塚で5人の遺体が発見された事件は、ニュースを見るたびに暗く悲しい、そして何ともいえない鬱屈した気持ちにさせられます。

昔から殺人事件などの凶悪犯罪はあったのでしょうが、最近とくに、子どもの誘拐・殺人事件などのように弱いものに向かう犯罪や、動機にやるせなさを感じるような事件が多いような気がします。
ニュースでも繰り返しそういう報道を行っていて、何となく嫌な時代になってきたなと思っていらっしゃる方も多いでしょう。

しかし、繰り返し嫌なニュースを見て、「嫌な時代になったな」とみんなで話すことで、ますます嫌な時代にしてしまっているという側面はないでしょうか?
昔から日本には「言霊」という言葉があります。
言葉には不思議な力が宿っていて、ある言葉を発すると、その内容どおりの結果が生じるという考え方です。
もちろん、迷信に過ぎないと言ってしまえばそれまでですが、自分で発した言葉の内容がそのまま自分に返ってきてしまうという経験はないでしょうか?

たとえば、仕事で失敗するのではないかとか、試験で悪い点をとるのではないかとか、誰かに嫌われるのではないかとか、そういったことを考えて話をしているうちに、本当にそういう悪いことがおきるような気分になってしまうことって、誰しも一度は経験ありますよね。
この場合は、もしかしたら自分が発した言葉が「言霊」となり、自分自身に跳ね返ってしまっているのではないでしょうか?
同じように社会でも、暗いニュースをみんなで見て、暗い発言ばかりしていると、その発言自体が言霊となり、本当に世の中のムード自体が暗くなってしまい、結果として暗いニュースが再生産されているのかもしれません。

「言葉」とは、「言の葉」と書きます。
あるいは話が弾むことを、しばしば「言葉に花が咲く」などと表現します。
確かに世の中には暗いニュースが多いような気がします。
でも、せめて自分の周りの大切な人とは、お互いに花束を贈りあうような気持ちで明るく優しい言葉を伝えたいものですね。
posted by SNR at 18:56| Comment(2) | TrackBack(2) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月02日

GWだから伝えよう「愛のメッセージ」

いよいよ明日から、GWの後半戦に突入ですね。
すでに9連休の真っ只中だよという人も多いのでしょうか、行き帰りの電車は空いていてなかなか快適です。
でも、やっぱり明日から連休だと考えると嬉しいですね。
大きな旅行に出かける予定はありませんが、日常生活では忘れがちなことでも考えながら、久しぶりにのんびり過ごそうかなと思っています。

さて先日、ある新聞を読んでいたら、社説に『早寝・早起き・朝ごはん』という子どもの教育についての話が載っているのを見つけました。
確かに我々が子どもの頃と比べると、夜更かしをしたり、朝食を食べなかったりする子どもの割合が高まっていて、それは子どものこころや身体の発育に大きな影響を与えており、それが少年少女をめぐる社会問題の背景となっているという側面もあるようです。
だから、GWに家族そろって行楽や外食を楽しむのも良いが、生活のリズムを整える機会とするのも良いのではないか、というのがその社説の主旨でした。

自分自身の生活にリズムをつくり、こころや身体のゆとりを生み出すこと。
これは確かに大事なことですが、それだけでなく子どものうちから愛情とはいったい何なのかを経験させることも、同じくらい大切なことだと思います。
「早寝・早起き・朝ごはん」も大切ですが、そこにどれだけ親や家族の愛情が込められているかも、子どもの成長に大きく影響してくるのではないでしょうか?

「相手に注意を払うこと」「ゆっくり時間をかけること」
とても簡単なことのようですが、これこそが愛情の大きな要素であると僕は考えています。
個人重視の時代のなかで、相手との接触をできる限り抑えた方が良いという考え方を持ってしまうことがしばしばあります。
市場重視の時代のなかで、ゆっくり時間をかけることは損だと考えてしまう傾向が強くなってきています。
確かに核家族化したり、共働きの夫婦が増えたりする一方で、子どもを育てる環境が未整備な点も多く、先日内閣府が発表した国際調査では、子どもを産み育てやすい環境であると答えた人が48%と、日本はずば抜けて最下位でした。

相手に注意を払ったり、時間をかけたりしているヒマなんてないという人も多いかもしれません。
僕も実を言うと、ここで大威張りできるほど大切にできているわけではありません。
でも、それだからこそ相手を見守る視線や時間かけて愛情を育むこころを常に意識しておかなければいけないのではないかと思うのです。

GW前半でもっとも印象が深かったニュースは、やはり横田早紀江さんの下院公聴会での証言でした。
「心身疲れ果てておりますけれども、子どもたちが助けを求めている間は、どんなことがあっても倒れることができません…」
子どもを突然失った親の苦しみ、生存を信じて30年近くも戦い続け、そしてなお世界中の拉致被害者の救済を望む深い愛情。
そういったものがすべて込められた、世界中の人々のこころを大きく動かす愛のメッセージだったのではないでしょうか?

これからGWの連休を楽しむ方の多くは、幸いにも横田夫妻のような悲劇に見舞われてはいないのでしょう。
だからこそ、もし横田さんの証言にこころを動かされたのであれば、身近にいる大切な人々を温かく見守り、時間かけて愛情を育むこころを持ってほしいなと思うわけです。
連休でいろいろなゆとりがあるときにこそ、日常生活のなかで忘れがちなものを思い出してメッセージにして伝えていただきたいのです。

今日は自戒の念を込めた内容になってしまいましたが、みなさん良い休日をお迎えください。
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2006年04月25日

「本日も気をつけて、いってらっしゃいませ」

僕が毎朝乗る通勤電車は、私鉄と地下鉄でJRではありません。
ラッシュ時間にはしばしば列車の順番が入れ替わるほどの混雑ぶりなので、いつもというわけではありませんが、ものすごく丁寧に車内アナウンスをしてくれる車掌さんに当たることがあります。
乗り換え客の多いターミナル駅が近づくと、駅名と乗り換えのアナウンスをした上で、
「いつも○○線をご利用いただきありがとうございます。本日も気をつけて、いってらっしゃいませ」とひとこと付け加えてくれるのですが、これが全然嫌味じゃなく心地よいのです。
最近、味気のないアナウンス音に慣れてしまっている僕にとって、微笑ましい朝の光景のひとつとなっているくらいです。

みなさんすでにご存知でしょうが、今日でJR福知山線脱線事故から1年が経ちました。
そしてまたこれも大きく報道されましたが、山手線が昨日5時間以上もストップするというトラブルがありました。
道路の拡張工事で高架を支えるコンクリートを注入する際に、圧力がかかり過ぎて線路が5cmほど隆起したのだそうです。
一歩間違えれば列車が転覆する危険性もあったということで、大事には至らなかったとはいえ、またもや公共交通機関の信頼性を揺るがす結果となってしまいました。

さて、福知山線の事故から1年が経過して、いったい何が変わったのかが問題です。
報道によれば、事故原因の究明も被害者への補償も、ほとんど進んでいないというのが現状のようです。
国土交通省の事故調査委員会による最終報告が出るのは来年の春になってしまうようです。
被害者との補償交渉についても、被害者側の感情と補償額のバランスなど、難しいことも多いのでしょう。
しかし、こういったものすべてをトータルで、利用者側は見ているわけです。
単に新型のATSを設置したかどうかなどの安全対策だけでなく、JR西日本が会社としてのどのような姿勢をとっているのかということ自体を見ているのです。

一時期問題にされた日勤教育について、これが本当に事故原因のひとつになったのかどうかはわかりません。
でも、鉄道会社で我々が常に接する機会があるのは、電車の運転手や車掌、そして駅員の人たちです。
これらの人々が自分たちのサービスに誇りをもって、楽しく余裕をもって働いているかどうかというのは、安全性という面でも、とても大切なことだと思いませんか?
冒頭に書いた車掌さんのように、余裕をもった心遣いができる人たちが増えていくことを、心から祈りたいと思います。
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2006年04月18日

日経新聞の壁

朝の地下鉄に乗り込むと、僕の周りには次々と壁が立ち並んでいきます。
毎朝の通勤電車で見られる光景、名付けて「日経新聞の壁」です。

通勤車内で圧倒的に読まれているのは、やはり日経新聞ですよね。
みんなそれぞれ器用に折りたたみ、僕をぐるりと完全包囲してしまうわけですが、当の僕が一生懸命読んでいるのは、『司馬遼太郎が考えたこと』。
この前まで読んでいたのは、谷崎潤一郎の『陰翳礼賛』でした。
ちなみに、新聞は仕事に出かける前に、朝食を食べながら読むというのが、昔から染みついてしまった僕の癖なので、電車の中ではお気に入りの本を手にすることに決めているのです。

目の前に立っている、どこからどう見てもピカピカの新入社員すら、一心不乱に日経新聞を読んでいるのに・・・。
ちょっと不安になりかけた僕の目に、ドアの傍で文庫本を読みふけっているキャリア・ウーマンらしき女性の姿が留まります。
一生懸命、目を凝らして見ると、なんと読んでいるのはアレクサンドル・デュマの『モンテ・クリスト伯』!

いわずと知れた、主人公のエドモン・ダンテスが無実の罪で投獄され、そこから脱獄して巨万の富を得て、自分を陥れた人々に復讐をしていくというお話です。
こんなふうに概要を書いてしまうと陳腐なストーリーのようですが、実際には岩波文庫版で全7巻に及ぶ大作であり、人生の悲哀や登場人物の苦しみなど、胸をえぐるような濃密な描写が詰め込まれたものなのです。
もちろん、僕が『モンテ・クリスト伯』を読んでいる女性に共感を覚えたというのが、今回の主題ではありません。
あくまでも「日経新聞の壁」が今回のテーマです。

なるほど、日経新聞にはビジネスの世界で働く人々にとって、貴重なデータがたくさん載っています。
しかし、明日になればすぐにとまでは言いませんが、しばらく時間が経てばゴミ同然となってしまう情報がたくさん掲載されているのも事実です。
もし、朝の通勤電車で「日経新聞」さえ読んでいれば足りると考えている人がいるとしたら、それこそ「日経新聞の壁」なのではないでしょうか?
司馬遼太郎にしても、谷崎潤一郎にしても、デュマにしても、人生や社会のいろいろな局面で参考になる、さまざまな教訓に満ち溢れています。
そうした教訓から得た力を実際に生かすことこそ実は重要なのではないでしょうか?

「日経新聞」についても、折角の貴重な情報を読み解いて、それを実戦で活用する力こそが大切となるわけです。
もちろん、電車の中で何を読むかは各自の自由で、余計なお世話なんですけどね。
「日経新聞の壁」に取り囲まれながら、ついついそんなことを考えてしまうこの頃です。
ちなみに、今日の一面トップに掲載された「病院・介護施設専門ファンド」の話は、なかなか面白かったですけどね。
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2006年03月29日

同意書を書く側の準備も必要ではないか?

「アカウンタビリティ」という言葉が、日本のニュースに登場するようになって、もう何年になるのでしょうか?
この間に、「説明責任」という日本語訳も定着しつつあり、さまざまな場で情報公開を進めるべきだという声が上げられるようになりました。
その流れは政府や企業に対してだけでなく、医療現場など国民生活に密着した場にも向けられるようになり、我々もその渦に巻き込まれつつあります。

さて、久しぶりの記事となりましたが、本日のテーマは富山県射水市民病院の延命治療中止問題です。
助かる見込みがないとみなされる患者に対して、大きな苦痛を伴う延命治療を続けるべきか?
延命治療を行うとすれば、それはどのような手続きで行うべきか?

この問題については横浜地裁の判例があり、@患者や家族の同意が明確に得られていたか、A患者の死期などについての医学的判断が独断で行われていなかったかが、合法性の基準とされています。
もちろん、この2つの基準はしっかり守られるべきでしょう。
しかし、これら基準の中身こそが、もっとも重要であることは言うまでもありません。

最近の医療現場では、治療する側とされる側の対話が重要視され始めています。
どのような治療方法を、どのようなタイミングで行うのか、その理由も含めて治療する側には説明を行う義務があるというわけです。
その際には患者の側も積極的に説明を求めて、必要とあれば別の医療機関からの「セカンド・オピニオン」を求める姿勢が必要となります。

今回のような終末期治療についても同様に、患者とその家族との対話、そして医療機関の情報開示がしっかりと行われるべきだという意見が出ています。
しかし、説明や対話を求めるべき我々の側はどうなのでしょうか?
問題となっている外科部長も「信頼関係は形のないもの。同意書にサインしてくれとは申し訳なくて言えない」と述べているように、延命治療中止という問題に向き合う準備ができているのでしょうか?

もちろん、現在のような医療現場まかせの状態は改善されるべきで、適切なガイドラインや対話の仕組みはつくられるべきです。
日々刻々と変わる病状のなかでも、しっかりと粘り強く話し合う場をつくっていくことが求められるでしょう。
しかし、その時点で患者本人の意思表示がはっきりしない場合が問題です。
こういうケースでこそ、家族間の意見の一致が見られないまま、曖昧なままに医者任せの対応が行われてしまうわけです。

あらかじめ、患者本人のリヴィング・ウィルを残すことができるのか、それがなくても家族が冷静に話し合う態勢をつくることができるのか?
そういう我々日本人の死生観に関わることも、同時に考える必要があるのでしょう。
脳死判定の問題もそうですが、単なる法律や仕組みだけでなく、倫理的問題にも踏み込んだ意識の変革が求められているかもしれません。
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2006年03月09日

雄弁・訥弁・詭弁…

民主党の新たな国対委員長に就任したのは、早稲田大学「雄弁会」出身の渡部恒三議員ですが、独特の会津訛りでのおしゃべりは健在のようです。
「なごませ系老人力」などと言われているようですが、自らを「旗本退屈男」と称したり、「国会が終わったら全国漫遊だ」と発言したり、笑いを誘いながら進めていく手法には、ある種の貫禄を感じさせてくれます。

一方で、耐震偽装問題はまた新たな展開です。
今度は札幌を中心に新たな偽装が発覚しました。
「自分の目的に数値が合わないので、信念に基づいて数値を改ざんした。偽装ではない」というのは、浅沼二級建築士の言葉。
しかし、その信念は「自分がもし客の立場であったら買わない」という驚くべきもののようです。
以前、福岡の建築士が「偽装の意図はなかったので、偽装ではない」と言い張ったこともありましたね。
耐震基準という論理そのものが揺らいでいることも問題ですが、「詭弁」もここまでくるとあきれ果ててしまいますね。

ここまで「雄弁」「詭弁」という言葉を使ってきましたが、日本語には「訥弁(とつべん)」という言葉があるのをご存知でしょうか?
「訥弁」とは、「つかえたりして、なめらかでないへたなしゃべり方」という意味ですが、これは日本では必ずしも否定的な意味ではなく、「訥弁だが真心のこもった挨拶」などというように使われることもあります。
まさに渡部恒三議員の話しぶりは、この「訥弁」に当てはまると言えるでしょう。

そもそも明治維新に日本が欧米から輸入したもののうちで、「演説」という概念ほど身につかなかったものはないと言えるかもしれません。
もともと、日本では不特定多数の人間を「雄弁」に説得するという伝統が薄かったと言われています。
「沈黙は金、雄弁は銀」と言われるように、言葉を尽くしても所詮は「詭弁」に過ぎないものとなるか、あるいは「訥弁」で人情に訴えるということが多かったのではないでしょうか。
この結果、欧米的伝統では雄弁な論争を行うべき政治の世界でも、舞台裏の談合でものごとが決まっていくのが常態となってしまったのでしょう。

渡部恒三議員の「訥弁」も良いのですが、やっぱり単なる「情の世界」ではなく、しっかりとした「論理の世界」で政治を見せてほしいですね。
一方で、「耐震基準の論理」が引っ込んで、「詭弁」がまかり通るのも困ってしまいます。
「二大政党制」や「説明責任」という言葉が虚しく踊る背景には、我々日本人のことばに対する接し方があることを考える時期に来ているのでしょうか。
そのためには真の「雄弁」を育てる努力が必要とされているかもしれません。
posted by SNR at 22:29| Comment(4) | TrackBack(8) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月20日

社会全体が性格障害になっていませんか?

滋賀県長浜市で、5歳園児の若菜ちゃんと迅くんが刺殺された事件。
またもや小さい子どもの命が奪われることになってしまいました。
鄭永善容疑者は自分と子どもがなじめないのは、他の園児たちのせいであると恨みを募らせていたようです。

このように問題の責任を他人に転嫁して回避することを「性格障害」と呼ぶのだそうです。
その反対に、何でも自分が悪いと思い込みすぎる症状を「神経症」と呼びます。
6年ほど前に中国から日本へやってきた容疑者は、特に日本語や日本の習慣という壁がたくさんあり、そこから周囲との認識のギャップが生まれ、徐々に精神的に追い詰められていってしまったのでしょう。
ただ、このケースを特殊なものとして片づけてしまうのはいかがなものでしょうか?

子どもたちを取り巻いている環境を見ると、殺害に至るまでの極端なものは少ないにしても、多かれ少なかれ周りの大人たちが「性格障害」に陥っているケースは多いのではないでしょうか?
いじめ、不登校、学級崩壊、学力低下等々。
ここ数年間、子どもを取り巻く問題の多くで親と学校の対立や責任回避が見られたのは、みなさんの記憶にも新しいことだと思います。
本来であれば、子どもの教育に責任をもち協力し合っていくはずの親と学校が互いに責任回避した結果、その皺寄せはいちばん弱い子どものところへと向かってしまうわけです。
しかも、この問題は一過性のものではありません。
親が性格障害であれば、ほとんど例外なく子どもの発育にも影響が現れ、「性格障害」か「神経症」の子どもを育てていくことになるわけです。

近頃、社会では「責任」という言葉をよく耳にするようになりました。
政治家の責任、企業の責任、学校の責任、病院の責任等々です。
こういう言葉だけを見ると、日本も責任を自覚した素晴らしい社会になっているように聞こえるかもしれませんが、現実は耐震偽装の問題に見られるように、できる限り責任を回避しようとする姿ばかりを見るような気がします。
社会全体が「性格障害」に陥り始めているのではないかと不安になってきます。

「責任」という言葉が氾濫して「性格障害」が蔓延したのでは本末転倒ではないですか?
だからといって、僕は「責任」が重要でないと言っているわけではありません。
責任ある人たちがお互いに批判しあうのでなく、協力し合えるコミュニティづくりが必要なのではないでしょうか?
今回の事件に見られるように、これからますます外国籍の人たちの数は増えていくでしょう。
しかし問題は彼らが外国籍であることよりも、むしろ協力をし合っていけるようなコミュニティづくりにある。
そんなふうに今回の事件を見ることはできないでしょうか?
posted by SNR at 18:59| Comment(5) | TrackBack(1) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月13日

「記憶を失った街」は「こころを失った街」?

2月11日に、表参道ヒルズがオープンしました。
80年近くも表参道の顔であった同潤会青山アパートが取り壊され、そこに商業スペースと住居スペースの複合施設が建てられたのです。
同潤会アパートの取り壊しが議論されたことは、みなさんの記憶にも新しいことでしょう。

今回の設計を行ったのは建築家の安藤忠雄さんです。
安藤さんは同潤会アパートを同潤館という形で再現しただけでなく、本館内部のスロープは表のケヤキ並木と同じ勾配に、建物の高さもケヤキ並木を越えないようにすることで、これまでの景観とのつながりを維持しようと設計しました。

かねてから僕は東京には街づくりというコンセプトがまるでないと感じていました。
再開発が行われるたびに、バカのひとつ覚えみたいな塔が次々と建っていく様子に違和感を覚えていました。
別に金太郎飴のような街並みをつくれというわけではありません。
その街がもつ個性や価値というものを大切にした建物づくりが行われているようには、どうしても見えなかったのです。

2月10日放送の『ニュース23』における、筑紫キャスターと安藤さんの対話はなかなか興味深いものでした。
上述したような問題意識が繰り返し述べられていただけでなく、安藤さんが表参道ヒルズで実現したかった「風景を通じた現在と過去の対話」を行うことの大切が伝わってくる内容でした。
また長寿社会に向かっている今日だからこそ、単に街の機能性を追及するだけでなく、そこに長く住む楽しみを重視すべきだという主張もうなずけるものでした。

話が少し飛躍するようですが、街を次々と無計画につくりかえることは、その街に暮らした人の記憶やこころを奪っていくのと同じようなことだと思います。
なぜ我々は敢えて街並みから「記憶やこころ」を払しょくしようとするのでしょうか?
海外旅行などに行けば喜んで歴史的街並みを見物する人たちが、なぜ自分たちの街並みをいとも簡単に捨ててしまうのでしょうか?
自分たちの「記憶やこころ」を軽んじるようなことをするのでしょうか?

もちろん、木造建築物が焼失や腐敗に弱いこともひとつの要因でしょう。
あるいは、古い建物を維持したり、再現したりするコストが高いことも要因のひとつでしょう。
しかし、そこで失われる我々の「記憶やこころ」にもうちょっと配慮をしても良いのではないでしょうか?
少なくとも耐震基準に満たない無価値なマンションを乱立させるよりも、はるかにマシなことだと思います。

丸の内にも三菱一号館の再生計画があるようです。
街の持つ「記憶やこころ」を重んじる機運が高まることで、単に耐震基準を満たしているだけでなく、後世にも我々の「記憶やこころ」を伝えていけるような建物づくりが進むことを願います。
posted by SNR at 21:30| Comment(9) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月10日

「品位なき戦い」の数々

ニュースではあまり大きく取り扱われませんでしたが、昨日の予算委員会が空転して審議ストップとなりました。
自民党の菅原一秀議員が、予算案についてのほとんど質問をせずに、一般的に民主党の批判を展開したためです。

国会が少しでも国政を良くするために議論を行う場であることは、子どもでもわかる常識だと思います。
予算委員会が予算の審議を通じて、国政に関わる重要問題を議論する場であることも論を待たないでしょう。
いくらBLT4点セットなどで追い詰められているとはいえ、あまりにも品位に欠けた態度には開いた口がふさがりませんね。

最近のニュースを見ていると、見ていられないものが多くありませんか?
耐震偽装マンション問題では、関係者がそろって責任のなすり合い。
東横インの不正改造問題でも、無責任記者会見の後は中身のない謝罪会見。
ライブドア問題では、手段を選ばぬ株式時価総額つり上げ。
これらは「市場経済原理主義」などという言葉だけで片づけられる問題なのでしょうか?
抜け道や盲点があれば道徳など見て見ぬふりをして開き直る。
ここには品位のかけらも見当たりません。

「品位なき戦い」が繰り広げられているのは、どうやら日本だけではないようです。
イスラム教の預言者「ムハンマド」を風刺した漫画が、イスラム教徒の怒りを爆発させました。
さらに問題を激化させたのが、フランスの漫画新聞『シャルリー・エブド』紙による掲載。
通常売り上げ14万部の同紙は、この特集号で47万部もの売り上げがあったそうです。
「表現の自由は守られるべきだ。風刺の権利もあるし、自由もある」というのは、同紙の編集長バル氏の発言。
「表現の自由で人のこころを傷つけても構わない」とは、ジャン=ジャック・ルソーも驚く品位のレベルなのではないかと思いませんか?

ベストセラーのひとつ『国家の品格』では、品格についての4つの指標を挙げていますが、そのなかのひとつが「高い道徳」です。
品位と品格では多少言葉の意味が違うのかもしれませんが、「高い道徳」というのはどちらにも通ずるものだと思います。
戦前の駐日フランス大使、ポール・クローデルは昭和18年に、こう述べました。
「日本人は貧しい。しかし高貴だ。世界でただ一つ、どうしても生き残って欲しい民族をあげるとしたら、それは日本人だ」
決して戦前の体制や戦争を賛美するわけではありませんが、この言葉に誇りを持てる日本社会はどこへ行ってしまったのでしょうか?
posted by SNR at 21:13| Comment(6) | TrackBack(3) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月09日

あらためてプロとは何かを問う

「作為的でないということだけ言っておきます。そのために戦いますよ。技術者として絶対に負けませんよ!」とは、サムシング元社長の仲盛昭二建築士の発言です。

サムシングは1997年から1999年にかけて、福岡市内の構造計損の6割を担った建築事務所で、新たに偽装の疑いがある木村建設施行の物件があることが判明しました。
つまり、以前から懸念されていた耐震設計基準を満たさない「非姉歯」物件の存在が判明してしまったのです。

僕がここで敢えて「物件の存在が判明してしまった」と書いたのには理由があります。
それは福岡だけでなく、熊本県でも新たに偽装の疑いがある物件が判明したからです。
国土交通省が構造計損書の点検の結果、偽装なしと判断したにもかかわらず、木村建設施行の「非姉歯物件」から6件も、耐震偽装が行われていた疑いがもたれています。
この事実を以前から把握していたにもかかわらず、熊本県が公表していなかったことが明らかになったのです。
「厄介な物件の存在が判明してしまった」という態度がありありではないですか?

以前、耐震偽装問題が発覚したばかりの頃、「プロフェッショナリズムはどこへ消えたのか?」にも書きましたが、今回の報道を見てあらためてプロフェッショナリズムとは何かを問いたいと思います。
偽装の意図があったのかどうかについては敢えて問いません。
それにしても、問題が発覚した後の対応が問題なのではないかと思います。
仲盛氏の「作為的に偽装はしていない」という主張にしても、熊本県の「情報を積極的に開示しなかったこと」にしても、プロフェッショナルとしての視点が大いに欠けているのではないでしょうか?

サムシングの仲盛建築士は、ただ自分が偽装をしていないという主張の一点張りでした。
プロフェッショナルな技術者としての戦いは、自分が作為的な偽装をしていないと主張をすることだそうです。
たとえ姉歯氏のような偽装を作為的に行っていないのであっても、自分が手がけた物件に瑕疵があるかもしれないのであれば、まずは住民に対して不安を与えたことについて謝罪の気持ちがあって然るべきなのではないでしょうか?
熊本県の偽装隠しも同様で、自己保身以外の何ものでもないでしょう。
自分たちが設計したり、あるいは管轄したりしている物件に対する責任感は、彼らの態度のどこにも見られません。

本来のプロフェッショナリズムとは、自分が扱ったものに対する愛着や誇りを持ち、最後まで責任を貫こうとする態度にのみ宿るのではないでしょうか?
そういう精神を持っているのであれば、何よりもまずそこに住んでいる住民のことを考えた発言をするのが当然ではないでしょうか?
確かにマスコミは安易に悪者探しに走る悪い傾向があります。
それでもプロであるならば、もっとも大事な点は「作為の有無」ではなく、「建物の安全性と住民の安心」であることくらい分からないのでしょうか?
嗚呼、日本のプロフェッショナリズムはどこへ行ってしまったのでしょう。
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2006年02月01日

発言の耐えられない軽さ

「警察に捕まったら仕方ないし。…そんなに悪いことかなあと思っている」
「車でいうと60kmのところを、67〜8kmくらいで走っても、まあイイかって」

建築確認を受けた後で、障害者用の設備を取り壊して改装していた東横イン西田憲正社長の発言です。
昨年も姉歯建築士の発言、ヒューザー小嶋社長の発言などに驚きましたが、
まだまだ、こんな発言をするキャラクターもいたのかという感じで話題になりましたね。

政治家の発言もいい加減なものが目立ちます。
ホリエモンの選挙応援問題では、小泉総理は責任がないかのような発言をして、後で形成が悪くなると撤回。
BSE問題で追及された中川昭一農林水産大臣は、朝令暮改のあやふや答弁。
「人生いろいろ」、「自衛隊が活動している地域が非戦闘地域」などと、小泉総理だって「失言王」森前総理に負けないくらいの発言を繰り返しているのですが…。

個々の発言の背景にある政策については、みなさんそれぞれ意見があるでしょうが、
やっぱり気になるのは、テレビから流れてくる本来ならば責任ある方々の発言が、あまりにも軽いものとなっているのではないかということです。

「言論を大切にし、言論に責任を持たないで、まともな政治ができるはずがない」
毎日新聞の岩見隆夫氏が書いていましたが、こんな状況で本当にまともな政治が行われているのだろうかと心配になってきてしまいますね。
企業だってトップが発する言葉に責任をもたなかったら、「企業の社会的責任(CSR)」なんて成立しうるはずがありません。

「重さは本当に恐ろしいことで、軽さは素晴らしいことであろうか?」
亡命チェコ人作家のミラン・クンデラは、代表作のひとつ『存在の耐えられない軽さ』のなかで問いかけています。
ミラン・クンデラはプラハの春の失敗を受けてフランスに亡命。
1989年のビロード革命以後もフランスにとどまり作家として活動している人で、彼の作品の多くは共産主義の重苦しい政治支配と激動の時代を舞台背景としています。
クンデラは続けます。

重荷が重ければ重いほど、われわれの人生は地面に近くなり、
いっそう現実的なものとなり、より真実味を帯びてくる。
それに反して重荷がまったく欠けていると、人間は空気よりも軽くなり、
空中に舞い上がり、地面や地上の存在から遠ざかり、半ば現実感を失い、
その動きは自由であると同時に無意味になる。


先ほど責任ある人たちの発言が軽くなったと述べましたが、背景にはその発言を受け取る社会があるわけです。
東横イン社長の発言を聞いて、「ひどい」、「おかしい」と思いながらも、思わず苦笑してしまっている人たちがいるのではないでしょうか?
ちなみに、情けないことに実際に僕も苦笑してしまいました。
どうやら我々の社会全体が「軽はずみなもの」になってきているような気がします。

もちろん、言論統制の効いた重い抑圧の時代に戻りたいわけではありません。
だからといって、「自由に発言すること」と「無責任な軽い発言をすること」が、同義ではないでしょう。
軽くて自由ではあるが無意味な社会になっていって良いものかどうか、そろそろ考えてみる時期にさしかかっているのではないでしょうか?
posted by SNR at 19:21| Comment(10) | TrackBack(4) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月29日

ナベツネさんの正論と限界

読売新聞の渡辺恒雄会長の言論活動が活発になっています。
僕は『論座』に掲載された対談を読んでいませんが、筑紫哲也氏とのテレビ対談は見ました。
主な論点は、ホリエモンに代表されるような市場経済原理主義への警鐘総理の靖国公式参拝への反対であったように思います。

犬猿の仲であった読売と朝日が手を組んだと話題になりましたが、僕から見れば至極全うなことを仰っているなというのが感想です。
特に靖国参拝問題については、なかなか重みと迫力がある発言であると感じました。
80歳の大台を手前にして歴史を知る人間として発言をしなければならないという気迫はもちろんですが、ソ連の日ソ中立条約破棄に伴う侵攻とシベリア抑留について日本人が抗議する資格について述べた点も説得力がありました。
東京裁判には問題点があるかもしれないが、まずは自分たちの身を正してからでなければ、相手の戦争犯罪行為に対しても抗議できない。
まさに正論で、おっしゃるとおりだと思います。

市場経済原理主義に対する警鐘も間違っていないと思います。
行き過ぎた市場原理の信奉はモラルハザードを生み、却って市場全体の信頼を喪失する危険性を孕んでいます。
それだけではありません。
政府が出した統計は因果関係を否定しましたが、富の配分に偏りが生じて貧富の格差を助長する可能性もあります。

しかし、こうした正論が既成勢力の既得権益維持の方便に用いられるとしたら、これを看過することはできません。
「若者は歴史を知らずに靖国参拝を支持している」「マネーゲームに興じる若者がホリエモンを支持した」、だから若い者はダメだというような空気があるのを感じてしまうのは僕だけでしょうか?

「構造改革」「財政再建」「人口減少時代」「格差社会」等々と、ニュースはさまざまなキーワードで溢れていますが、「少子高齢化」の時代だからこそ「世代間の対立」という問題を、もっと真剣に考える必要があると思います。
ホリエモンのような現象が起こった時代背景として、昔からよくある錬金術のマネーゲームと見るのは短絡的ではないでしょうか?
若い世代の強い不満と閉塞感があったことをしっかり認識しなければ、今後も同じようなことが繰り返されるだけではないでしょうか?
プロ野球参入に際して「ボクの知らんヤツはダメだ」と言った彼の真意は分かりませんが、多くの人が新規参入の門戸は閉ざされているのだという印象を持ったことは間違いないと思います。
今回のライブドア・ショックで、若くして成功するためにはやはり法を犯すくらいのことをしないとダメなのだというムードになってしまってはいけないと思うのです。

ちなみに、僕自身はマネーゲームには何の関心も持っていません。
おカネよりも、もっと大切なことがあると思っています。
それでも、いまの日本社会はまだまだ閉鎖的だと思っています。
たとえしっかりとした実業のための能力を持っていたとしても、おカネや知名度がないと個人が成功するための機会すら掴みにくい世の中だと感じてしまいます。

確かに渡辺常雄会長のおっしゃるとおり、自分を含めて若い世代は歴史の知識が少ないと思います。
しかし、あの無謀な戦争へと突き進んだ背景には、貧富の格差と若手軍人の鬱積した不満があったことをお忘れじゃないでしょうか?
国内で「昭和維新」と称してクーデータを繰り返し、対外的には「満州は日本の生命線」と称して拡張を続けていった背景には、農村部の貧困と政界や財界などの既成勢力に対する強い不満があったことを…。

あのときの失敗を二度と繰り返さないためにも、今回のことを機に若い世代にも開かれた社会のあり方を、しっかりと考えていただきたいものですね。
posted by SNR at 18:51| Comment(6) | TrackBack(2) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月18日

『日本を決定した百年』とその後

昨日に引き続き、ライブドア騒動耐震偽装設計の問題についてです。

この2つの問題は、本当に偶然なのかどうかは定かではありませんが、
たまたま同じ日に大きなニュースとなりました。
だからというわけではありませんが、どちらの問題にも共通する大事な視点があるように思います。

ライブドアは良い意味でも悪い意味でも、新しい問題を提起してきた企業でした。
バブル崩壊以降、低迷してきた日本経済や株式市場を活性化させてきたのは間違いないでしょう。
プロ野球問題にしても、ニッポン放送株問題にしても、なかなか良い問題提起をしていたこともありました。
株式分割にしてもM&Aにしても、それ自体が決して悪いことだとは思いません。
そうした手段を用いて何を目ざしているのかということが問題なのだと思います。
堀江社長は株式時価総額で世界最大の企業を目指すと述べていたと思いますが、
それだけではない大きな目標やビジョンが足りなかったのではないでしょうか。
もちろん営利企業なのだから収益を上げることは大前提ですが、多少偽善くさくても構わないから、単なるお金儲け以上の夢を語ることができれば良かったのだと思います。

一方で、耐震偽装設計のマンションについても同じです。
100平方メートルの物件を4000万台でというのも、それ自体は決して悪いことではないと思います。
でも、家というものは単に安くて広ければ良いというものではありません。
月並みな言い方ですが、そこには人々の生活があるわけですよ
もっと大きな視点から見ても良いでしょう。
つまり、マンションはそれだけで独立して建っているわけでなく、街の景観を構成しているわけです。
自分たちが街づくりの一環を担っているという意識が彼らにあったのでしょうか?

ある意味では、現在の日本は日露戦争後の日本と似ている。
日露戦争の勝利によって、明治の初めに人びとが目ざしたことがいちおう達成された。
現在の日本は、戦争直後に始められた仕事がいちおう成功した状態である。
しかし、日露戦争後の日本は新しい目的を探求する代わりに目的を失い、いつの間にか誤った方向へと迷い込んでしまった。
日本人が現在、日本が背負うべき責任を回避し、そのすぐれた能力に目的を与えないならば、同じような危険が存在する。


これは元首相の吉田茂が、明治維新100年(1967年)を機に書いた『日本を決定した百年』の一節です。
高度経済成長の終わりと、その後の日本について予見したかのような内容ですね。
吉田がこう述べた後、日本はバブルとその崩壊を経験して現在に至るわけです。
この間に日本は果たして、経済成長以上の目的を見つけられたのでしょうか?
これが2つの問題に共通している大事な視点だと思います。

今日はライブドア・ショックで、東京証券取引所の全銘柄が取引停止になる始末です。
吉田は続けて「現在の状況を日本人の精神的混乱とするのは必ずしも正しくない」と述べていますが、今日のような狂乱市場を見ていると心配になってきますね。
ちゃんと本業で頑張っている企業もあっての景気回復なんですから、それを見極める目を持ってほしいものです。
posted by SNR at 22:28| Comment(5) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月17日

命や生活に関する問題を忘れてしまったのですか?

2006年1月17日。
ライブドアのニュースによって後ろに隠れてしまった大事なニュースを、みなさん忘れてしまったのでしょうか?
そうです。
今日は阪神大震災からちょうど11年に当たります。
あの世間を震撼させた宮崎勤事件の最高裁判決が出る日でした。
そして、耐震設計偽装問題の国会証人喚問が行われる日でもありました。

しかし、昨日の夕方からテレビのトップニュースはライブドアです。
ブログの記事などは圧倒的にライブドアです。
確かにライブドア株はストップ安で596円まで下落しました。
売り注文は全然さばけていないようですから、ますます下落することは間違いないでしょう。
昨年の夏の総選挙で、「改革」Tシャツを着ていたのは誰だったのかと言いたくもなります。
今後の株式市場やM&Aのやり方などに大きな影響は与えるでしょう。
それでも、多くの国民にとって本当に大事なことは何なのか?
もう一度、考えてみる必要があると思います。

補佐人との相談35回、証言拒否30回。
今日、国会で行われた証人喚問でヒューザー小嶋社長の証言内容です。
誰がどう見ても時間稼ぎや実態隠しにほかなりませんでした。
ちょっとした事実について聞かれても、本人が最初に行った証言について確認を求められても、「刑事訴追を受ける恐れがあるのでお答えできません」と繰り返すばかりだったのです。

小嶋社長の不実を責めることは簡単です。
でも、その前にもう一度よく考えてみましょうよ。
ここまで小嶋社長の証人喚問を拒み、引き延ばしを続けてきたのは自民党だったわけです。
これでは自民党が実態隠しに加担したと言われても仕方のないことでしょう。

皮肉にも証人喚問は阪神大震災と同じ日となってしまいました。
本来であれば、地震でお亡くなりになった方たちを追悼して、二度と地震で簡単に倒れるような建物を建てないということをあらためて誓う日となるはずでした。
しかし、ライブドア騒動に注目が集まるなか、疑惑がますます深まるだけの証人喚問になってしまったわけです。

今日、宮崎勤被告の上告が最高裁で棄却され、一審・二審の死刑判決が確定しました。
もちろん、大きなニュースです。
もうひとつ、大事なことを忘れていませんか?
昨年末に起きた栃木の小1女児殺害事件は未だに解決していないことを。

宮崎勤の事件は、あまりにも身勝手で残忍な犯行で、世間を文字通り震撼させました。
その後相次いで起こる幼女誘拐殺人事件や劇場型殺人事件野の、まさに原型とでもいうべき事件でした。
宮崎事件の判決は、今後こうした犯罪を抑止していく上でも大変重要なものなのです。
本来であれば、この事件をもう一度振り返り、現在も解決されていない事件と子どもの安全について考えてみる日となるはずでした。
どうして、こういう大事な事件について忘れてしまうのでしょうか?

繰り返しますが、ライブドアへの強制捜索がくだらないと言っているわけではないのです。
ほかにも国民の命や生活がかかっている大事な問題があると言っているのです。
株価やM&Aや経済よりも、もっと身近で大事な問題があるということを。
posted by SNR at 19:55| Comment(15) | TrackBack(19) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月16日

耐震偽装問題で国会に望むこと

明日、17日に証人喚問が開かれてヒューザー小嶋社長への質問が行われます。
19日には、四ヶ所氏などに対する参考人質疑が開かれ、
20日からは通常国会が召集されます。

耐震偽装問題については、これまでも何度も書いていますが、
国会の証人喚問などの最大の目的が、「国民に対する説明責任」の追及であることは言うまでもありません。
「国会証人喚問に茶番劇は必要ないですから!」にも書いたように、国民に対する説明責任は刑事責任や道義的責任と同一のものではありません。
もちろん、偽装を誰が主導したのかを明らかにしていく必要はありますが、
業界全体に蔓延していたと思われる体質を炙り出すことが最終目標であることを忘れてはならないのです。
その際に建設業界にとどまらず、国土交通省や政治家も含めた全体像に迫ることが求められているわけです。
当然、自民党は及び腰なわけですが…。

ともかく、早急に求められているのは国民の安心と信頼を回復することです。
建築基準法を含めて、検査体制の問題点はすべて見直してもらわなければなりません。
これは罰則規定を重くするくらいで済まされる問題ではないわけです。
通常国会でも引き続き建築業界全体にメスを入れ続けていただきたいものです。

さて、こう書いている間にライブドア本社への家宅捜索のニュースが大きく流れています。
東京地検特捜部は今回「風説の流布」の容疑がかかっている買収だけでなく、その他の買収もにらんで捜査を始めているようです。
これまでライブドアが行ってきた、M&Aを繰り返すことによって株価を上げて成長するという手法に、今後どんな影響があるのでしょうか?
注目すべき問題だとは思いますが、これで明日行われる証人喚問のニュース価値が大きく下がってしまったことに危機感を感じます。

国会での議論は、まだまだ始まったばかりです。
おそらくIT企業によるM&Aのターゲットにされたテレビは、ライブドア関連のニュースに多くの時間を割くでしょう。
耐震偽装の問題は、より国民の生活に直結している大きな問題です。
国会もメディアも、そこのところを間違えないようにしていただきたいと思います。

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posted by SNR at 20:46| Comment(7) | TrackBack(6) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月11日

成人式は必要なのでしょうか?

さてさて、2日ほど遅れてしまいましたが、
今年も成人式の季節がやってきましたね。
数年前まで成人式=荒れるというのが典型のような報道をされていましたが、
最近は、行政のお仕着せも少なくなり、以前に比べれば荒れなくなってきたようですね。
まあ、もともと荒れるのは一部の人だったのだと思いますけど。

今年の成人は143万人で、人口比にすると過去最低の数だそうです。
自分の頃を振り返ると、確かにずいぶん減ったんだなという感じがします。
成人式が荒れると注目されるより、はるか昔のことですけどね。

しかし、あらためてこんな問いをするのも変かもしれませんが、
何で成人式なんてものを、みんなで集まってやらないといけないのでしょうか?
しかも、行政単位でやるっていうのはいかがなものでしょう。
みんなで久しぶりに集まりたいなら、同窓会もあるわけですしね。
そもそも、大人になるとはどういうことなのでしょう?

子どものころは、みんな一斉に小学校に入学するなど横並び一線という感じでいきますが、徐々にみんな個性が芽生えてきて大人になっていくわけです。
要するに大人になるということは、それぞれ個性のある人格をもった人間として自立することを意味するわけですよね。
やっと大人になったというのに、どうしてみんな横並びで式をやる必要があるのか、ちょっと理解に苦しんでしまいます。

ちなみに僕は相当なひねくれ者だったので、式に出席せずに大学の友達と遊んでいました。
だからと言って、もちろん僕が立派な成人になっていたというわけではありませんよ。
それどころか、今だって自分がちゃんとした大人なのかどうか不安になるときがあるくらいですけれども。
ただ、自分の考えをもって進んでいこうという気持ちは持っていたように思います。

恐らく成人式で騒いだ人たちも、みんなの注目を浴びたいからとか、みんなで騒ごうということになったからといったような動機で起こしたことなのでしょう。
逆に言えば、みんなが静かにしているから、おとなしく出席したという人もいるはずですよね。
そういう横並びみたいなものはどうなのかなと思ってしまいますね。


実は僕もあまり偉そうなことは言えた立場ではないのですが、
大人になるということは、自分なりの価値基準をもって、自らの責任で行動するということだと思います。
もちろん、大人だって失敗しますし、間違いは犯します。
そんななかでも、自分の弱さや限界を知り、社会のなかでバランスをとって生きていくことができる。
こういう個々人の自覚こそが、もっとも大事なことであるような気がします。

それにしても、本当に成人式って必要なんですかね?
しつこいようですけど…。
posted by SNR at 21:55| Comment(4) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月26日

SNRが斬る今年の重大ニュース! 相次ぐ詐欺被害:「信」無くして立てるのか?

振り込め詐欺、ワンクリック詐欺、リフォーム詐欺にフィッシング詐欺…。
数え上げればきりがないほど、詐欺被害が後を絶たない1年でしたね。
詐欺という犯罪は大昔からあるのでしょうが、情報化が進み便利な時代になって、ますます増えてきているように感じるのは気のせいなのでしょうか?

一方で、個人情報保護法が施行されました。
悪いニュースばかりが表に出やすいのかもしれませんが、耳にするニュースは奇妙なものばかりです。
企業の顧客データが大量流出したり、事件や事故に際して警察が情報を把握しようとしても病院に断られたり、住民基本台帳の閲覧が簡単にできて犯罪に利用されたりといったニュースです。

新しい仕組みが出来上がって、それがうまく機能するまでには多少の時間がかかるのかもしれませんが、それにしても何となく信頼のできない社会になってきているなという漠然とした不安感は誰もが感じていることでしょう。

フランシス・フクヤマが『「信」無くばたたず』(原題:Trust)を著したのは、ちょうど今から10年前の1995年のことでした。
この本のなかで、日本は米国やドイツなどとともに、信頼度が極めて高い社会であると分類されていました。
フクヤマの議論の中心は、高度な資本主義経済が機能するためには、歴史的に蓄積された社会資本としての「信頼」が必要とされるというものでした。

この本が書かれた社会背景としては、ロシアに市場経済が導入されてもうまく機能しなかったことや、米国経済がなかなか不況から脱せずにいたことなどがあり、学問的背景としては、市場経済の下で人々が合理的に行動すれば経済は活性化すると基本的に考える「新古典派」へのアンチテーゼという側面があったわけですが、それでもこの議論にはある種の説得力があったのは事実です。
契約が簡単に破られる社会で長期的な投資などできないことは、みなさんにも直感的にご理解いただけるでしょう。

このように書いたからといって、社会の信頼度が低いと分類された国、たとえばロシアや中国の人たちが、まったく信頼できないというわけではありません。
彼ら個人が信頼するべきものが何もない暮らしを送っているというわけでもありません。
フクヤマが分析しているように、こうした社会では逆に家族や血縁の間での信頼関係がきわめて強いのだそうです。
ただ、こうした社会では家族や血縁による経営の枠を超えて企業の規模が拡大したり、生産や資本提携の大規模なネットワークが形成されたりするのは、きわめて困難なものとなってしまうのです。
このため、こうした国々で大規模な事業を遂行するためには、国家という権力の介入が必要となってくるのです。

さて、もちろんここでの主題はフクヤマの議論が本当に正しいのかどうかではありません。
「そうは言ったって、中国経済はずっと成長し続けているじゃないか」という意見もあるでしょうし、「日本経済の『失われた10年』はどう説明するんだ」という異論もあるでしょう。
フクヤマの議論も、長い歴史から見れば必ずやってくる好景気や不景気を説明するものではないのでしょうから、その辺は勘弁してください。
あれから10年経って、日本社会の信頼をどう捉えるべきなのか?
これが今回のテーマです。

振り込め詐欺の登場によって、身内や警察からの電話もまずは疑うところからスタートしなければならなくなりました。
フィッシング詐欺のように企業の名を騙るものだけでなく、リフォーム詐欺、保険金の不払いやリコール隠しなども相次ぎ、企業の信頼も揺らいでいるような気がしてなりません。
橋梁談合やマンション偽装など、国と企業が絡んだ問題も胡散臭さを一段と増しているように思えます。
子どもの安全は脅かされ、新たな通信手段であるネットもワンクリック詐欺などが横行、テロの脅威も高まり…。

もちろん、個別に起こっていることを積み上げて全体を判断することは危険です。
まじめに信頼関係を築き上げている人たちも、たくさんいるのは間違いないでしょう。
でも、世の中に「とりあえずは疑うことから始めようよ」という空気が蔓延し始めているとしたら、これはちょっと由々しき事態なのではないかと思ってしまうのです。

ホリエモンによる「おカネさえあれば何でも買える」という言葉が、異常なまでの注目を浴びたのも今年の出来事でした。
個人投資家の増大が株式市場を活発化させて、景気拡大の背中を押していることは間違いないでしょうが、反発であれ共感であれ、ホリエモンの言葉に大きく反応した社会にはちょっと違和感を覚えてしまいます。
まさか某保険会社の「おカネは大事だよ」というコマーシャルの影響ではないでしょうが、お金の損得にはずいぶんと日本人も敏感になったような気がしないでもありません。

みずほ証券の誤発注のときに荒稼ぎをした企業に対して、与謝野経済財政担当大臣が「美しくない」という発言をして話題になりました。
違法な行為で利益を上げたわけではないのですから、与謝野さんの発言には賛否両論あるでしょう。
しかし、我々日本人が当たり前のように享受してきた「社会の信頼関係」というものについて、そろそろ「よく考えてみる」段階に差しかかりつつあるのではないでしょうか?

目に見えにくいだけに、崩れた信頼関係を回復することは大変な作業になります。
みなさんも、人生のうちで一度や二度はそういう経験をしていることだと思います。
そして何よりも、おカネであれ株式であれ、ヤギの視点から見たら単なる紙切れに過ぎないものを価値あるものにしているのは、「信頼」という目に見えない絆なのですから。
手遅れにならないうちに、もう一度「信頼」というものを見つめなおす必要があるのではないでしょうか?
posted by SNR at 15:08| Comment(4) | TrackBack(2) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月22日

ゆっくりと急ぐということ

先週土曜日の朝日新聞土曜版beに、
長野県の上田でブドウ農園とワイナリーを営む玉村豊男さんの特集が載っていました。
ワイン専用のブドウ栽培から醸造までを一気に手がける手づくりワイナリーです。

「海外の高級ワインの知識を得るのもいいけど、ブドウ畑に立って風を感じ、見てさわって、それが数年後ワインになって飲む喜びはまた格別です」
玉村さんの言葉がとても深くこころに残りました。

今年の流行語のひとつに、「LOHAS」という言葉が入賞したように、
環境や健康を大事にしながら生活していくライフスタイルが注目を集めていますね。
「スローライフ」なんていう言葉もよく耳にします。

その一方で、みずほ証券の誤発注問題ではわずか16分という短い時間に20億円もの利益を上げた個人投資家が話題になっています。
JR西日本の尼崎脱線事故では、秒単位の運行が電車の運転手に多大な心労を与えていることが判明しました。
地球温暖化の予想以上の進行が、カトリーナなどによる巨大ハリケーンの被害を引き起こしたのではないかなどとも言われています。
ちょっと世の中急ぎすぎじゃないのかな?
こんなふうに感じるニュースが多かったようにも思いますね。
そんなニュースを時間に追われて伝えているマスコミ自身が、「スローライフ」を提唱していることに疑問を感じなくもありません。

「スローライフ」「LOHAS」などを、もっとも取り上げているニュース番組は「ニュース23」だと思います。
そんなわけで、たまには「今日のニュース23は準備が間に合わないので10分遅れで始まります」なんてことになっても、それはそれで楽しいんじゃないかと無責任な僕は思うのですが…。
などと考えていたら、最近知り合いに聞いた話では筑紫キャスターは本番の直前にスタジオ入りするらしいです。

実はかなり以前に、渋谷の某コーヒー屋さんで平日の夜9時半くらいに、トイレの順番を譲ってもらっている筑紫キャスターを目撃したことがありまして、
僕の友達の間では、「筑紫さんのコメント部分は録画じゃないのか?」とか、「筑紫さんには影武者がいるのでは?」なんていう珍説が飛び交っていたんですね。
その(長年の?)謎が解けたことと、日々のニュースに終われながらも「ゆったり感」漂う筑紫さんのイメージに、ついほのぼのしてしまったなんてこともありました。

さて、今日はだいぶ駄文を書き連ねてしまいましたので本題に戻ります。

みなさんもたぶん同じだと思いますが、現代人である以上は誰しも「ただゆったりと生きていくこと」なんてできないでしょう。
同様に、「何が何でも健康」とか「何が何でもエコ」なんていう生き方も、ちょっとこれは難しいんじゃないかなと僕は思ってしまいます。
それでも、どこか頭の片隅にゆとりというものを少々持って、
「相手が人であれ、モノであれ、時間と手間を惜しみなくかけてあげること」
「一日のうちにほんの少しでも、常に10年・20年後の自分の身の回りを思い描いてみること」
こういう生き方こそが、ささやかな「スローライフ」であり、「LOHAS」なんじゃないかなと思うのであります。
まあ、日々継続的に実践するのはなかなか難しいんですけどね。
posted by SNR at 22:21| Comment(9) | TrackBack(2) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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