2006年05月26日

ポスト小泉の振る舞い

先日の安倍官房長官の立候補宣言で、ポスト小泉レースは事実上、安倍氏と福田氏の一騎打ちに絞られてきた感があります。
各種世論調査の結果を見ても、先行する安倍氏を福田氏が猛追するという図式がはっきりしてきたようです。
まだ実際の総裁選までは3ヶ月以上もあるので安易な予想はできませんが、国会終了後にしっかりとした政策論争が行われることを望むばかりですね。
そのためにも、教育基本法、共謀罪、あるいは国民投票法といった重要法案や、社会保険庁による年金納付率偽装や米国産牛肉の輸入再開といった問題に対して、彼らがどのような態度を見せるのかにも注目しておきたいものです。

さて、本日のテーマは政治家のパフォーマンスについてです。
これまで長い間、「パフォーマンス」という言葉は、政治家にとってマイナスイメージ以外の何ものでもありませんでした。
しかし小泉総理の在任5年間で、政治家が人気を得るために必要な要素として、すっかり定着してしまったような気がします。
先日の『ニュース23』で田原さんと対談した筑紫キャスターが、「世界中どこを見渡しても、あれだけ毎日テレビに登場する指導者はいない」と言っていましたが、我々も知らず知らずのうちに、すっかりそのペースに乗せられてしまっているのでしょう。

僕の個人的な意見としては、政治家にとってある種のパフォーマンスは必要であると考えています。
ただ、あまり「パフォーマンス」という言葉を安易に使いたくはありません。
むしろ、古くからある日本語である「振る舞い」という言葉を使いたいと思っています。
理由はそんなに難しいものではありません。

振る舞いという言葉には2つの意味があります。
ひとつは、「振る舞うこと、挙動、あるいは態度」という意味で、「立ち居振る舞い」などという使われ方をします。
もうひとつは、「ごちそうをすること、もてなし、あるいは供応」という意味で、「大盤振る舞い」などという使われ方をしますね。
両者の違いを、お分かり頂けたでしょうか?

「振る舞う」という言葉には、単なる態度や挙動という意味だけではなく、相手のために何かしてあげるという「もてなしの心」が含まれているのです。
政治家がパフォーマンスをする際にも、自分の私利私欲だけを求めるのではなく、相手、つまり国民のために行動するという側面を持つことを忘れないでいただきたいですよね。
「パフォーマンス」ではなく、「振る舞い」という観点から、ポスト小泉レースを見ていくというのはいかがでしょうか?
posted by SNR at 17:07| Comment(5) | TrackBack(10) | 政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月25日

本質からズレていませんか?

みなさんもご承知のように、このブログでは「本当に大切なこと」というテーマで繰り返し、さまざまな記事を発信しています。
その一方で、ものごとの本質をつかむことが、なかなか容易でないことも承知しているつもりです。
それにしても、ここ数日間のニュースを見ていると、大きな疑問を抱きませんか?

まずは、大阪などの社会保険事務所で4万人以上に年金納付の不正免除を行っていたという事件です。
いわゆる「年金納付率」偽装という話です。
村瀬長官が出した「『国民年金の収納率』緊急メッセージ」という文書の存在が明らかとなり、組織防衛のためにノルマ2ヶ月以内に2%アップを課していたことが判明して大騒ぎになったようです。
年金制度に対する信頼回復こそが最重要課題であることは、国民の目からは一目瞭然なのですが、社会保険庁内にいると、どうやらその本質が見えなくなるようです。

大手銀行の3月期決算が発表され、大手銀行6グループはバブル期を超える過去最高益を記録しました。
特に三菱UFJの連結最終利益は1兆円を超えてトヨタに迫る勢いだったわけですが、与謝野金融担当相のコメントは「決算は良くなってきているが、我々にしてみればまだ半人前だ」というものでした。
すでに指摘されているとおり、今回の過去最高益の背景には、不良債権処理に積んでいた貸倒引当金が景気回復のために不必要となった戻り益の存在がありました。
つまり企業業績が回復したことで貸し倒れが減った分だけ、利益となって戻ってきたわけで、これは銀行の経営努力の結果ではありません。
それだけでなく、投資信託などの金融商品の窓販で得た手数料収入も、利益をかさ上げする大きな要因でした。
そもそも、銀行が本業として行うべき預金と投資信託は競合商品です。
多くの預金者がゼロ金利状態に業を煮やして、投資信託などの金融商品へと乗り換えたわけですから、そこで手数料が増えても本業による利益ではありません。
銀行利用者に対して本業でサービスを行うことが最重要課題であることは、利用者の目からは一目瞭然なのですが、金利変動に伴うリスクに怯える銀行は、本質をきちんと理解できているのでしょうか?

最後に、教育基本法の前文をめぐり、「我が国と郷土を愛する態度を養う」という政府案と、「日本を愛する心を涵養(かんよう)する」という民主党案が対立しており、この点が象徴的に報じられています。
いわゆる「愛国心」についての議論ですが、今国会内で可決に持ち込むか、会期延長を行うのかといった、政治的駆け引きの材料に使われているようにしか見えません。
確かに、国民が自らの国を愛せないような国家は不幸ですし、そんな社会の活力は徐々に削がれていってしまうでしょう。
しかし、だからとって「愛国心」とは教育で強制するようなものなのかというのが、反対論者たちの意見です。
しかし、それ以前の問題として、国家の成り立ちや政府の仕組みについて、我々はどれほどしっかりとした教育を受けたというのでしょうか?
しっかりと理解していないものを、ただやみくもに愛せと言われても、そこに健全な民主主義が成立しうるはずがありません。
日本という国の成り立ちや仕組みを教えることが最重要課題であることは、国民の目からは一目瞭然なのですが、国会議員の先生たちは本質を理解できていないようです。

以上3つの問題について、みなさんの目にはどのように映っていますか?
posted by SNR at 15:50| Comment(8) | TrackBack(14) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月22日

モリーの教え

ここのところ日経平均株価が大きく値下がりして、一時期は1万6000円台を切ったこともありました。
原因はいろいろ分析されていますが、これまで日経平均を押し上げてきた外国人投資家と個人投資家の売りが株価を下げている要因のひとつだと言われています。
また、ジャスダックや東証マザーズなどの新興市場も大きく低迷しており、短期取引で得られる利潤を追求してきた個人投資家の動きが鈍ってきているようです。
もちろん、ライブドアの上場廃止をはじめとして、ここに来ていくつかの企業の不祥事、あるいは不透明な財務体質や資本政策が明るみになり、それが市場全体の不信感を強めているのも事実です。
しかし、信用取引による無理な資金調達で投資を行なってきた投資家が、担保不足による追い証が発生する前に、損を覚悟で売り抜けるということも増えてきているようです。

投資にあまりにも投機的な面ばかりが目立つことに、僕自身は賛成していません。
今回の新興市場の低迷も、むしろ銘柄選別がしっかりと行なわれて、市場の健全化が進む契機となれば良いと考えています。

人類という家族に投資しよう。
人に投資しよう。
愛する人、愛してくれる人の小さな共同社会をつくろう。


これは『モリー先生との火曜日』、実在したブランダイス大学教授モリー・シュワルツの言葉です。
モリー・シュワルツは筋萎縮性側索硬化症(ALS:別名「ルー・ゲーリック病」)にかかり、徐々に体の自由が奪われて死を迎える中で、かつての教え子であるミッチ・アルボムに「人生とは何か」、「愛とは何か」といったテーマで、最後の授業を行ないました。

先週まで自分でできたことが、今週には介助なしにはできなくなる。
今週、自分でできていることも、来週にはできなくなるだろう。
そして近い将来、確実に死を迎えることがわかっている。

こういう自分の状況を絶望せずに受け入れ、人の愛を素直に受け入れ、さらに人を愛することを実践して見せることで、モリーは最後の授業を行なったのです。
もちろん、先ほど引用したモリーの言葉は、株式投資について述べたものではありません。
しかし、絶望的な状況で死を確実に迎える人間の強さと優しさに満ちた言葉には、そんなことは関係なくなるくらいの普遍性と真理が含まれていると思います。

株式投資が資産運用である以上、一定の利益を追求するのは当然です。
しかし、一方で社会に貢献する健全な企業の資金調達を助けるという社会的な側面があることもまた事実です。
社会に暮らす人々、企業であれば顧客や従業員、そして株主を大切にしない企業には、本来投資をすべきではないのです。
まさに人に投資することと、人を大切にしている企業に投資することは、本質的に同義なのでしょう。

物質的なものを抱きしめて、向こうからもそうされたい。
だけど、そうはうまくいかない。
物質的なものは愛ややさしさの代わりにはならない。
友情の代わりにはならない。

モリー・シュワルツの言葉を、いつも胸に刻んでおきたいものですね。
posted by SNR at 17:52| Comment(7) | TrackBack(0) | 経済 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月20日

「日本を代表する」ということ

今週の月曜日に、ワールドカップ・ドイツ大会に臨むサッカー日本代表23人のメンバーが発表されたことは、みなさんもご存知ですね。
巻選手が選ばれたことや、久保選手が落ちたことなどが大きな話題になり、みなさんも選ばれたメンバーを見ていろいろな感想をお持ちになったでしょう。
6月9日の開幕が待ちきれないという方も多いとは思いますが、もちろんこのブログでサッカーの技術論はいたしません(コメントでは勝敗予想なども含めて大歓迎ですが…)。
僕も素人評論しかできませんから、記事本文では敢えて触れないことにしておきます。

では、今日のテーマがいったい何かと言うと、タイトルに掲げたとおりで「『日本を代表する』というのは、いったいどういうことなのだろう?」という話です。
まず、「日本代表」という言葉を聞いて、みなさんはいったい何を連想なさるでしょうか?
僕なんかは、やはり「サッカー日本代表」などを比較的容易に連想しますね。
もちろんサッカーに限らず、野球でもその他のスポーツでも、オリンピックやワールドカップのような国際大会で日本を代表して戦ってくれる選手たちは、「日本を代表する」人たちと考えて自然でしょう。
つまり、スポーツに限らず特定の分野に秀でていて、その分野で日本を代表するということですね。

しかし、「日本を代表する」ということには、もう少し広い意味があると思います。
それは「日本代表チーム」は、日本社会の特色を色濃く反映しているという意味です。
例えば、ワールドカップ代表メンバーが発表された翌日の朝日新聞に、編集委員の星浩さんが、サッカー日本代表と政治を対比した記事を書いていました。
日本代表にとっても、自民党や民主党といった政党にとっても、組織と個人のバランスが課題であるというものでした。
日本代表の試合があると、よく「FWの決定力不足」や「個人の能力を補う組織力」などが話題になりますが、これも日本人や日本社会をチームが代表している証拠なのでしょうね。
試合に負けると特に外国チームと比較した嘆き節が聞かれますが、これも一朝一夕に変えることは難しい問題なのだと思います。

サッカーというスポーツの最大の魅力は、世界の国それぞれに、その国の色をしたサッカーだが存在していることにあるでしょう。
それだけ、サッカーというスポーツには単純だけど普遍性が備わっているということですね。
ブラジルにはブラジルの、イングランドにはイングランドの、イタリアにはイタリアの国民性を反映したサッカーがあり、どの国も国民や社会の特徴をうまく生かして戦っています。
日本がワールドカップに出るのは3回目ですが、まだまだ欧州や南米の国々に比べれば歴史が浅く、これから少しずつサッカーの本質を自分たちのものとして、日本色をつくりあげていく過渡期にあるのでしょう。
前回の大会に比べて、日本がどのような成長を見せているか、勝敗だけにこだわらず見てみたいものですね。
こんなことを考えながら、ワールドカップの本番を迎えてみるのはいかがでしょう?
posted by SNR at 16:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 趣味・スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月18日

日本は世界の最貧国なのか?

バブル崩壊後の長い停滞があったとはいえ、景気回復が軌道に乗りつつある日本に、何てことをいうのか?
こんな意見もあるかとは思いますが、以下のようなマザー・テレサの言葉を聞けば、少しは納得していただけるかもしれません。

ひとりぼっちの寂しさと
誰からも必要とされないという思いは
もっとも恐ろしい貧困である


年間の自殺者が3万人を超えるような国が、果たして本当に豊かな国と言えるのか?
これが本日のテーマだったので、敢えて「最貧国」などという過激なタイトルを使ってみたわけです。
我々はこれまで何度も、「貧困に苦しむ国々で、毎日どれほどの子どもが栄養失調で死んでいくのか」などいう話を聞かされてきました。
「そういう子どもたちもいるのに、なぜ命を大切にしないのだ」と言われて、多くの人が頭ではその意味を理解できると思います。
しかし、それでも我々はこの物質的な豊かさを前に、人と人との絆の大切さを、つい忘れがちになってしまうのです。

確かに、人間は誰しも究極的にはひとりです。
ひとりぼっちで生まれ(双子の方もいらっしゃるでしょうが)、ひとりぼっちで死んでいきます。
だからこそ、本当は人との絆に無限の価値があるのですが、なかなかそのことに気がつけないため、多くの不幸な事態が生じてしまうのでしょう。

こんな話をしていると、ますます悲観的になってしまいそうですが、ちょっと視点を変えて、こんなふうに考えてみてはいかがでしょうか?
「捨てる神あれば拾う神あり」
日本人なら誰もが知っているありきたりな言葉ですが、一神教の国の人々から見たら、ずいぶんといい加減な考え方なのでしょう。
しかし、この言葉には、「たとえ一度失敗しても、それですべてが終わりというわけではない」という大切な価値観が含まれています。

このように考えてみると、日本古来の「八百万(やおよろず)の神(かみ)」という考え方は、現代社会にこそ必要な考え方なのかもしれません。
すでに述べたように、昨年まで7年連続して自殺者は3万人を越えており、「格差社会」などという言葉もすっかり定着してしまった感があります。
でも、一生懸命やって失敗しても、それは失敗ではありません。
そこから前に進まなくなったとき、初めてそれは失敗となるのです。

国会で現在多議中の教育基本法の「愛国心」などという概念よりも、日本社会に古くからある価値観を生かすことの方が、今の日本にとって本当は大切なのかもしれませんね。
posted by SNR at 20:10| Comment(5) | TrackBack(3) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

SNRより御礼

昨年11月17日に公開を始めたこのSNRブログ。
昨日5月17日で無事、公開半年を迎えることができました。
おめでたいですね。
何がおめでたいのか、自分でもさっぱりわかりませんが、とにかくおめでたいような気がします。

さて、冗談はさておき、この間に、このページを訪れた方は2万5643人。
ページビューは8万209PV。
頂いたコメントとTBの総数は752。
この数字もすごいのか、そうでもないのかよくわかりませんが、「多くの方にお世話になり、何とか半年続けることができた」というのが実感です。

最初始めたときには、ブログにしては硬すぎ、コラムにしては砕けすぎたこんな文章をいったい誰が読むのかという思いもありました。
それでも続けてこられたのは、本当にみなさんのアクセスやコメントに支えられたという側面が大きいなとあらためて思います。

あっという間に半年間が過ぎてしまいましたが、これからも、さまざまなジャンルの問題にチャレンジして、他のブログにはない視点から文章を発信していきたいと思っております。
最後にこれまでの、みなさんのご愛読に感謝するとともに、コンテンツのますますの充実を誓いまして、お礼の言葉とさせていただきます。
本当にありがとうございました。
posted by SNR at 18:06| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月12日

言霊の行方

GWも終わり1週間が経とうとしています。
連休中にもあちらこちらで殺人やら何やら、物騒な事件が起きて連日報道されていましたね。
特に平塚で5人の遺体が発見された事件は、ニュースを見るたびに暗く悲しい、そして何ともいえない鬱屈した気持ちにさせられます。

昔から殺人事件などの凶悪犯罪はあったのでしょうが、最近とくに、子どもの誘拐・殺人事件などのように弱いものに向かう犯罪や、動機にやるせなさを感じるような事件が多いような気がします。
ニュースでも繰り返しそういう報道を行っていて、何となく嫌な時代になってきたなと思っていらっしゃる方も多いでしょう。

しかし、繰り返し嫌なニュースを見て、「嫌な時代になったな」とみんなで話すことで、ますます嫌な時代にしてしまっているという側面はないでしょうか?
昔から日本には「言霊」という言葉があります。
言葉には不思議な力が宿っていて、ある言葉を発すると、その内容どおりの結果が生じるという考え方です。
もちろん、迷信に過ぎないと言ってしまえばそれまでですが、自分で発した言葉の内容がそのまま自分に返ってきてしまうという経験はないでしょうか?

たとえば、仕事で失敗するのではないかとか、試験で悪い点をとるのではないかとか、誰かに嫌われるのではないかとか、そういったことを考えて話をしているうちに、本当にそういう悪いことがおきるような気分になってしまうことって、誰しも一度は経験ありますよね。
この場合は、もしかしたら自分が発した言葉が「言霊」となり、自分自身に跳ね返ってしまっているのではないでしょうか?
同じように社会でも、暗いニュースをみんなで見て、暗い発言ばかりしていると、その発言自体が言霊となり、本当に世の中のムード自体が暗くなってしまい、結果として暗いニュースが再生産されているのかもしれません。

「言葉」とは、「言の葉」と書きます。
あるいは話が弾むことを、しばしば「言葉に花が咲く」などと表現します。
確かに世の中には暗いニュースが多いような気がします。
でも、せめて自分の周りの大切な人とは、お互いに花束を贈りあうような気持ちで明るく優しい言葉を伝えたいものですね。
posted by SNR at 18:56| Comment(2) | TrackBack(2) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月11日

ゆるぎない絆とは?

企業の株主総会シーズンが迫るなか、各社の決算発表が相次いでいますね。
日本経済新聞が集計した上場企業の2006年3月期決算では、企業業績は相変わらず好調のようです。
一方で、昨年から相次いだM&A騒動に対処するために、買収防衛条項を新たに盛り込んだり、株の持ち合いを増やしたりする企業も出てきているようです。

先日、日産のカルロス・ゴーン社長があるインタビューで、「M&Aよりも提携やタイアップの方が好きだ」と話していました。
買収をすれば必ず買収された側が、自分たちが外されると感じてしまうからだそうです。
ホリエモンによるニッポン放送買収から始まった一連のM&A騒動ですが、最近は少し鎮静化しつつあるような気がします。
長期的に経営を考えた場合、やはり無理な買収には大きなリスクがつきものなのでしょう。

いまチェ・ジウ主演の「連理の枝」という映画が公開されていますが、「比翼連理」という言葉があります。
これは白楽天の『長恨歌』に出てくる一節、

天に在りては、願わくば、比翼の鳥となり
地に在りては、願わくば、連理の枝とならん


から生まれた言葉で、「比翼の鳥」は二羽が一体にならないと飛ぶことができない鳥のことを、「連理の枝」はそれぞれの幹から出た枝がひとつにつながって木目がひとつになったもののことを差します。
玄宗皇帝と楊貴妃の愛をこう表現したことから、「比翼連理」とは仲睦まじい男女のことを指す言葉となったのです。

しかし、みなさんよくご存知のことと思いますが、「比翼連理」と称されるようなカップルなどは、まず現実には存在しないわけです。
誰しもが近づきすぎてはぶつかりあい、離れそうになっては手をつなぎあってバランスをとっているのでしょう。
「コーポレート・カルチャー」という言葉がよく使われますが、企業どうしが一緒になる場合も、それまでまったく違う道をお互いに歩んできているわけですから、ぶつかり合いになるのは当然です。
ましてや、いきなり買収をして不採算部門を切り捨てるようなやり方は、いたずらに相手の反発を招くだけでしょう。

以前、「『かんじんなことは目に見えない』のです」という記事にも書いたように、本当に深い絆とはお互いにたゆまぬ努力を必要とするもので、目に見えないものなのかもしれません。
企業活動でも同じことで、目に見える形にこだわるよりも、目に見えない信頼を大切にすることが、かんじんなのかもしれませんね。
posted by SNR at 18:28| Comment(0) | TrackBack(1) | 経済 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月09日

「日出(いず)る国の工場」の未来

デフレ脱却と言われているが、日本の景気回復は本物なのか?
格差社会などと言われるが、本当に格差が固定化されるような社会になってしまうのか?
世界的な競争のなかで、日本はこれからどうなっていくのか?
こうした問題が新聞やテレビで取り上げられない日はありませんね。

一見すると順調そうな日本経済でも、国際競争の行方を考えると、やっぱり不安になってきてしまうのでしょう。
とりわけ、中国やインドなどをはじめとするBRICs諸国との競争は世界経済の大きな地殻変動を引き起こす可能性があるといわれています。
グローバリゼーションの恩恵を背に成長するこれらの国々との競争は、これまでの先進国国内の経済構造にも大きな影響を与えるからです。
彼らが生み出す安い輸出品が、先進国内の労働者の仕事と生活を脅かすというわけです。

中国の工場労働者数は1億900万人、先進7カ国のすべてを合わせても5300万人。
こういう数字だけ並べてみると、なんだか心配ばかりが先に立ってきますが、現実には我々も安い輸入品を購入したり、逆に購買力をつけたこれらの国の人々が我々の輸出品を買ってくれたりと、悪いことばかりではないのでなかなか複雑です。
そうはいっても、これまで工業製品の輸出で成り立ってきた日本が、いったいどうなってしまうのか、新たに付加価値があり競争力のある産業を育てることができるのかを考えてみることは必要でしょう。

もう20年近くも前に出版されたものですが、村上春樹・安西水丸共著の『日出(いず)る国の工場』という本があります。
この本は「結婚式場」や「人体標本工場」、あるいは「コム・デ・ギャルソン」など、普通の工場見学ではあまり思い浮かばないような場所を訪ねるエッセイで、結婚式場を「セレモニーを生産する工場」と捉えたり、コム・デ・ギャルソンを「思想としての洋服をつくる工場」と捉えたりする発想が、ずいぶん前から僕のお気に入りになっています。

例えば、結婚式場では「松戸・玉姫殿」に取材しているのですが、以下のような具合になります。
工場としての結婚式場、あるいは「結婚式場」という名の工場の原料は言うまでもなく新郎・新婦という名で呼ばれる一組の男女であり、その機械的推進力は専門的ノウハウと手なれたサーヴィスであり、中心的付加価値は感動(あるいはもう少し控えめに情緒の高揚)であり、その需要を支えるのは世間一般の「しきたり・慣習・習慣」である。
そのようにして結婚式場では今日も(それが仏滅でさえなければ)ひとつまたひとつと、「セレモニー」というきらびやかな商品が産みだされていくわけである。


結婚式場が国際競争力を求められる時代が来るのかどうか、僕にはよくわかりませんが、このような発想でいろいろな日本の産業を捉えてみると、あんまり肩に力を入れることなく、面白い発想が生まれてくるのではないかなと思っています。
例えば、「スタジオ・ジブリ」などに代表される日本のアニメーションは、莫大な資金を投資して派手なアクションを演じるハリウッド映画なんかと比較するよりも、精密な技術力で世界と勝負する日本の小さな町工場の延長線上にあると思った方が自然ではないですか?

とにかく、堅苦しく「日本のサービス産業は国際競争力という点で世界に遅れをとってきたから、新たなイノベーションを求め云々」なんて考えるよりも、ずっと生産的なのではないかと思います。
所詮は、これまで高品質・高付加価値の工業製品を生み出してきた同じ日本人がやることなのですから。
posted by SNR at 19:21| Comment(0) | TrackBack(1) | 経済 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月05日

「2+2=3」の謎

「2+2=4」なのに、なんで「2+2=3」なんだ!?
このように思う人もいると思いますが、それについては後半でお話しすることにしましょう。

話は変わりますが、数学が解決しなければならない大きな問題のひとつに、「ポアンカレ予想」というものがあるそうです。
「3次元の閉じた多様体で『基本群が自明』なものは、3次元球面しかない」というのが、どうやらその中身のようですが、もちろん難しい数学について僕はよくわかりません(わかる方がいたら、是非わかりやすく教えてください)。
この「ポアンカレ予想」を証明することで、いったいどれほどメリットがあるのかも、いまひとつ認識できないのですが、ロシアの数学者であるグレゴリー・ペレルマン氏が、どうやら証明に成功したのではないかというニュースが大きな話題になっているそうです。

もっとも彼が本当に証明に成功したのかどうかは、かなり慎重な検証をしてみないと明らかにはなりません。
なぜなら数学における証明とは、ひとつの例外もなく当てはまる、つまり普遍的に正しいことが立証されなければならないからです。
たとえば、誰もが習ったことのある「ピタゴラスの定理(三平方の定理)」でも、定理に当てはまる大きさの直角三角形をいくつ例証してもだめで、あらゆる条件の直角三角形にこの定理が当てはまることを言わなければ証明したことにならないということですね。

こういう数学の世界に比べて、我々が住む世界に関する法則はもっと緩やかに出来上がっています。
自然科学の法則にしても、社会科学の議論にしても、現実の世界ではさまざまな要素が複雑に絡み合ってくるので、数学のように普遍的に正しいと証明することはなかなか難しく、仮説検定というレベルでものを考えているのです。
どうやら仮説の内容は確からしいというところで満足するしかなく、少し時代が経てば、また別の仮説に取って代わられるということも、しばしば起こるわけですね。

さて、掲題の「2+2=3」についてです。
これはもちろん、いわゆる数式ではありません。
通称「2+2」(ツー・プラス・ツー)と呼ばれる、日米の外交安全保障問題に関する首脳会議がワシントンで開かれました。
日本側からは外務大臣と防衛庁長官、米国側からは国務長官と国防長官が出席するため、このように呼ばれるわけです。
もうみなさんお分かりかとは思いますが、「3」という数字は米軍再編のための経費として、日本が3兆円の負担を求められているのではないかということです。

政府関係者ですら寝耳に水だと発言するような数字ですから、一般の国民にとってはもっと不可解で驚きの数字であるのは当然です。
ましてや財政再建のための大きな負担を背負うことになる国民から見れば、憤りすら感じるような莫大な金額です。
多くのメディアが論評しているように、なぜこのような負担が必要であるのか、政府はしっかりと説明責任を果たす必要があるでしょう。

これは数学のような証明が必要な問題ではありません。
科学の法則のように仮説検定を行なって確からしさを示すものでもありません。
国民が評価としているのは、正しさや確からしさではなく妥当性なのです。
全員が納得するような根拠を示せないにしても、それでも政府はしっかりと説明して説得を試みる義務があるのではないでしょうか?
「2+2=3」でなく「2+2=2.3」だというような意見も上がっているようですが、いずれにしてもうやむやにして誤魔化すようなことだけはしてほしくないものですね。
posted by SNR at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 外交・国際 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月02日

GWだから伝えよう「愛のメッセージ」

いよいよ明日から、GWの後半戦に突入ですね。
すでに9連休の真っ只中だよという人も多いのでしょうか、行き帰りの電車は空いていてなかなか快適です。
でも、やっぱり明日から連休だと考えると嬉しいですね。
大きな旅行に出かける予定はありませんが、日常生活では忘れがちなことでも考えながら、久しぶりにのんびり過ごそうかなと思っています。

さて先日、ある新聞を読んでいたら、社説に『早寝・早起き・朝ごはん』という子どもの教育についての話が載っているのを見つけました。
確かに我々が子どもの頃と比べると、夜更かしをしたり、朝食を食べなかったりする子どもの割合が高まっていて、それは子どものこころや身体の発育に大きな影響を与えており、それが少年少女をめぐる社会問題の背景となっているという側面もあるようです。
だから、GWに家族そろって行楽や外食を楽しむのも良いが、生活のリズムを整える機会とするのも良いのではないか、というのがその社説の主旨でした。

自分自身の生活にリズムをつくり、こころや身体のゆとりを生み出すこと。
これは確かに大事なことですが、それだけでなく子どものうちから愛情とはいったい何なのかを経験させることも、同じくらい大切なことだと思います。
「早寝・早起き・朝ごはん」も大切ですが、そこにどれだけ親や家族の愛情が込められているかも、子どもの成長に大きく影響してくるのではないでしょうか?

「相手に注意を払うこと」「ゆっくり時間をかけること」
とても簡単なことのようですが、これこそが愛情の大きな要素であると僕は考えています。
個人重視の時代のなかで、相手との接触をできる限り抑えた方が良いという考え方を持ってしまうことがしばしばあります。
市場重視の時代のなかで、ゆっくり時間をかけることは損だと考えてしまう傾向が強くなってきています。
確かに核家族化したり、共働きの夫婦が増えたりする一方で、子どもを育てる環境が未整備な点も多く、先日内閣府が発表した国際調査では、子どもを産み育てやすい環境であると答えた人が48%と、日本はずば抜けて最下位でした。

相手に注意を払ったり、時間をかけたりしているヒマなんてないという人も多いかもしれません。
僕も実を言うと、ここで大威張りできるほど大切にできているわけではありません。
でも、それだからこそ相手を見守る視線や時間かけて愛情を育むこころを常に意識しておかなければいけないのではないかと思うのです。

GW前半でもっとも印象が深かったニュースは、やはり横田早紀江さんの下院公聴会での証言でした。
「心身疲れ果てておりますけれども、子どもたちが助けを求めている間は、どんなことがあっても倒れることができません…」
子どもを突然失った親の苦しみ、生存を信じて30年近くも戦い続け、そしてなお世界中の拉致被害者の救済を望む深い愛情。
そういったものがすべて込められた、世界中の人々のこころを大きく動かす愛のメッセージだったのではないでしょうか?

これからGWの連休を楽しむ方の多くは、幸いにも横田夫妻のような悲劇に見舞われてはいないのでしょう。
だからこそ、もし横田さんの証言にこころを動かされたのであれば、身近にいる大切な人々を温かく見守り、時間かけて愛情を育むこころを持ってほしいなと思うわけです。
連休でいろいろなゆとりがあるときにこそ、日常生活のなかで忘れがちなものを思い出してメッセージにして伝えていただきたいのです。

今日は自戒の念を込めた内容になってしまいましたが、みなさん良い休日をお迎えください。
posted by SNR at 19:04| Comment(4) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。