2006年03月29日

同意書を書く側の準備も必要ではないか?

「アカウンタビリティ」という言葉が、日本のニュースに登場するようになって、もう何年になるのでしょうか?
この間に、「説明責任」という日本語訳も定着しつつあり、さまざまな場で情報公開を進めるべきだという声が上げられるようになりました。
その流れは政府や企業に対してだけでなく、医療現場など国民生活に密着した場にも向けられるようになり、我々もその渦に巻き込まれつつあります。

さて、久しぶりの記事となりましたが、本日のテーマは富山県射水市民病院の延命治療中止問題です。
助かる見込みがないとみなされる患者に対して、大きな苦痛を伴う延命治療を続けるべきか?
延命治療を行うとすれば、それはどのような手続きで行うべきか?

この問題については横浜地裁の判例があり、@患者や家族の同意が明確に得られていたか、A患者の死期などについての医学的判断が独断で行われていなかったかが、合法性の基準とされています。
もちろん、この2つの基準はしっかり守られるべきでしょう。
しかし、これら基準の中身こそが、もっとも重要であることは言うまでもありません。

最近の医療現場では、治療する側とされる側の対話が重要視され始めています。
どのような治療方法を、どのようなタイミングで行うのか、その理由も含めて治療する側には説明を行う義務があるというわけです。
その際には患者の側も積極的に説明を求めて、必要とあれば別の医療機関からの「セカンド・オピニオン」を求める姿勢が必要となります。

今回のような終末期治療についても同様に、患者とその家族との対話、そして医療機関の情報開示がしっかりと行われるべきだという意見が出ています。
しかし、説明や対話を求めるべき我々の側はどうなのでしょうか?
問題となっている外科部長も「信頼関係は形のないもの。同意書にサインしてくれとは申し訳なくて言えない」と述べているように、延命治療中止という問題に向き合う準備ができているのでしょうか?

もちろん、現在のような医療現場まかせの状態は改善されるべきで、適切なガイドラインや対話の仕組みはつくられるべきです。
日々刻々と変わる病状のなかでも、しっかりと粘り強く話し合う場をつくっていくことが求められるでしょう。
しかし、その時点で患者本人の意思表示がはっきりしない場合が問題です。
こういうケースでこそ、家族間の意見の一致が見られないまま、曖昧なままに医者任せの対応が行われてしまうわけです。

あらかじめ、患者本人のリヴィング・ウィルを残すことができるのか、それがなくても家族が冷静に話し合う態勢をつくることができるのか?
そういう我々日本人の死生観に関わることも、同時に考える必要があるのでしょう。
脳死判定の問題もそうですが、単なる法律や仕組みだけでなく、倫理的問題にも踏み込んだ意識の変革が求められているかもしれません。
posted by SNR at 20:17| Comment(0) | TrackBack(11) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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