2006年02月28日

「ずるずるべったり」の行方

いわゆる「送金メール」問題で永田議員が謝罪会見を行いました。
民主党が永田議員に下した処分は半年間の党員資格停止で、合わせて野田国会対策委員長も辞任する模様です。
自民党側はまだ怒りが収まらないようですが、国民の立場から見れば騒動の発端から処理に至るまでに露呈した民主党の稚拙さがもっとも気になる点ではないでしょうか?
民主党による一連の対応のまずさはしっかりと反省されて、今回指摘されたさまざまな問題点が改善されるのかを見守るべきだと思います。
しかし、今回の騒動では一方的に民主党が株を下げたかのような印象をもたれていますが、果たして本当にそうなのでしょうか?

先日、日本総研理事長の寺島実朗氏が指摘していましたが、イラク戦争の際に大量破壊兵器があるという誤った情報に基づいて自衛隊のイラク派遣まで行ったのは、当の自民党政権だったわけです。
アメリカにしてもイギリスにしても、あのときの情報は誤りであったということが後に明らかにされ、それなりの検証が行われましたが、日本ではどうだったでしょうか?
小泉総理は「自衛隊の活動している地域は非戦闘地域」などという意味不明な逃げ口上を打つだけで、自己検証というものをまったく行いませんでした。
軌道修正をいつまでもできずに、ずるずると進み続けてしまうのは民主党だけの特質なのでしょうか?

日本における「歴史とはつまるところ思い出だ」と述べたのは小林秀雄氏のようですが、戦後を代表する政治学者の丸山真男氏は、同じように日本の伝統思想のあり方を「ずるずるべったり」という言葉で表現しました。
すなわち、日本人は過去と自覚的に向き合わないままに新しいものを次々と取り入れる。
このため過去はいつまでも客体化されず、「ずるずるべったり」と現在のなかに滑り込んでくるというわけです。
もう少し敷衍して述べると、日本人は過去の過ちに真摯に向き合い何が問題点であったのかをはっきりさせることができず、自己批判や自己検証をすることが苦手であるということにはならないでしょうか?

このように考えてみると、いつまでも戦争責任にけじめをつけることができずに靖国参拝問題を引きずり続ける日本の姿も、どことなく同じような構図に見えてきます。
「ずるずるべったり」の構造については、どうやら日本人全体で真剣に考えてみる必要があるようです。
今回の騒動についても、民主党はしっかりとした原因究明を行い、より良い国会論戦を目指して再出発していただきたいものです。
単なる個人の責任論に終始するのでは、またもや「思い出」を増やすだけですから。
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2006年02月24日

明らかになった政権担当能力?

さまざまな重要ニュースを押しのけて世間を騒がせた「堀江メール」問題ですが、当の永田議員は静養と称して入院をしてしまいました。
一方で民主党の前原代表は、永田議員は辞職する必要がない、メールの信憑性についても偽者であるとは思っていないと発言したようです。
民主党幹部が主張しているように、メールの真贋よりも武部幹事長とライブドアの関係をめぐる疑惑を明らかにすることの方が大切だと思います。
しかし、それはあくまでもきっちりと自分たちの責任をとってからであることは言うまでもありません。
まずなされるべきことは、自分たちに降りかかってきた火の粉を振り払って、きっちり始末をつけることだと思います。

永田議員の入院と同じ日、伊藤公介元国土庁長官の政治倫理審査会が開かれました。
耐震偽装事件発覚の2日前に、小嶋社長と国土交通省幹部の面会を取り持ったことなどを含め、口利きや金銭授受があったのではないかという疑惑についての政倫審です。
疑惑の解明とはほど遠い内容のものでしたが、自民党からは早くも幕引きの声が上がっているといいます。
昨年末から民主党が追及を続けてきたこの問題についての報道は、メール騒動の前に明らかに小さな扱いに終わってしまいました。
このまま逃げ切り勝ちとなってしまうのでしょうか?

この2つの問題の背後には、政治家の「危機管理能力」という問題が大きく影を落としているように思います。
伊藤公介元国土庁長官の逃げ方は誠実さとはほど遠いものであり、お世辞にも誉められたものではありません。
しかし「危機管理能力」という観点から民主党の対応と比較したとき、自民党議員たちの能力の方が格段上だなと感じてしまう人は多いのではないでしょうか?
というのも、危機管理能力が自らの置かれた立場に対する合理的な計算に基づくものである以上、単純な誠実さとは相容れない部分があるからです。

今回の騒動を見て、2年以上前に起こった民主党の古賀潤一郎元議員による学歴詐称事件を思い出してしまいました。
あのときも自分に降りかかった火の粉を払うことができず、民主党の側も処分に手間取り大きく評価を下げました。
自分の身に降りかかった危機管理もできずに、内政・外交のさまざまな危機に対処することなどできるのだろうかと感じたのを思い出します。
あれから2年が経ち、一昨年の参議院選挙で躍進した民主党は、昨年の総選挙で惨敗を喫しました。
新たなスタートを切った前原民主党は、対案路線を掲げて国会論戦を挑むはずでした。
民主党はあのときから何も変わっていないのではないでしょうか?

日本でなぜ政権交代が起こらないのかについては、いろいろな議論があります。
これからの政権政党に政策立案能力が求められることは間違いないでしょうが、政権交代への最大の障壁は「危機管理能力」にあるのではないでしょうか?
ちらちらと垣間見える野党の危機管理能力不足も、有権者が選択を渋る大きな要因のひとつなのではないでしょうか?
「安全国会」を掲げる前に、民主党には自らの危機管理を徹底できるような政党に生まれ変わってもらいたいものです。
posted by SNR at 21:52| Comment(5) | TrackBack(20) | 政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月22日

野党が劇場型を狙ってどうするのか?

「堀江メール」問題で注目された党首討論が行われました。
一方で、ライブドアの熊谷取締役の逮捕を含め、堀江前社長らの粉飾決算容疑による再逮捕も行われました。
ライブドア問題はいろいろな意味で新たな段階に入ったと言えるでしょう。

時間切れ終了に、民主党の肩透かし。
残り10分を切ってから問題を切り出し、国政調査権の発動を求めただけに終わった今回の党首討論に対する評価です。
おまけに、民主党内部の分裂も漏れ聞こえてきており、くだんのメールは国会内の政争の具ではなく、民主党内の政争の具に使われているのではないかとの声すら出ている始末です。
当の永田議員はホテルにこもりっぱなしで、このままでは「ひきこもりの狼少年」というレッテルを貼られても仕方がないのではないでしょうか?

ちなみに僕はメールの真贋や、金銭授受があったかどうかの判断を現時点でするつもりはありません。
また、ライブドアと政界をつなぐお金の流れについては明らかにされるべきだと思っていますし、民主党がそれを追及すること自体について批判したいわけでありません。
ただ、こんなお粗末な劇場を見るくらいならば、しっかりとした政策論争を展開してほしいと願っているのです。

ニュースではほとんど取り上げられないと思いますが、実は前原代表はメール問題の前に2つ質問をしました。
ひとつが公務員削減を含む行政改革問題で、もうひとつはモラルと学力の低下を中心とした教育問題でした。
景気回復が本格化したとはいえ、開かれた健全な経済の育成を目指し、日本の長期的な国際競争力を高めるためには、どちらも大変に重要な問題です。
しかし、2つの問題についての前原代表の質問はきわめて不十分なものでありました。
小泉総理に長々と持論を述べさせるばかりで、その矛盾や問題点を指摘したと言えるものはほとんどありませんでした。

確かに昨年の総選挙で、民主党は小泉劇場の前に惨敗を喫しました。
だからといって、弱体化した民主党までが「劇場型」を演出しようとしてどうするのでしょうか?
しかも、このままいけば相当にまずい脚本と演出だったということになってしまいます。

大きく敗れたとはいえ、「刺客や郵政1点張りの選挙のなかで、さまざまな重要政策を訴えようとしていたからこそ民主党に投票した」という人たちだってたくさんいたのではないですか?
そういう有権者の期待を裏切るようなことはしてほしくないものです。
朝日新聞の星浩編集委員が、岡田前代表の効果で衆院予算委員会の空気が引き締まってきていると書いていました。
「政治家が真面目であることが問題であるような言い方が世間にあるが、僕には理解できない。政治は真面目なものですよ」
岡田前代表の言葉をしっかりと受け止めてもらいたいものです。
posted by SNR at 20:21| Comment(4) | TrackBack(27) | 政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月20日

社会全体が性格障害になっていませんか?

滋賀県長浜市で、5歳園児の若菜ちゃんと迅くんが刺殺された事件。
またもや小さい子どもの命が奪われることになってしまいました。
鄭永善容疑者は自分と子どもがなじめないのは、他の園児たちのせいであると恨みを募らせていたようです。

このように問題の責任を他人に転嫁して回避することを「性格障害」と呼ぶのだそうです。
その反対に、何でも自分が悪いと思い込みすぎる症状を「神経症」と呼びます。
6年ほど前に中国から日本へやってきた容疑者は、特に日本語や日本の習慣という壁がたくさんあり、そこから周囲との認識のギャップが生まれ、徐々に精神的に追い詰められていってしまったのでしょう。
ただ、このケースを特殊なものとして片づけてしまうのはいかがなものでしょうか?

子どもたちを取り巻いている環境を見ると、殺害に至るまでの極端なものは少ないにしても、多かれ少なかれ周りの大人たちが「性格障害」に陥っているケースは多いのではないでしょうか?
いじめ、不登校、学級崩壊、学力低下等々。
ここ数年間、子どもを取り巻く問題の多くで親と学校の対立や責任回避が見られたのは、みなさんの記憶にも新しいことだと思います。
本来であれば、子どもの教育に責任をもち協力し合っていくはずの親と学校が互いに責任回避した結果、その皺寄せはいちばん弱い子どものところへと向かってしまうわけです。
しかも、この問題は一過性のものではありません。
親が性格障害であれば、ほとんど例外なく子どもの発育にも影響が現れ、「性格障害」か「神経症」の子どもを育てていくことになるわけです。

近頃、社会では「責任」という言葉をよく耳にするようになりました。
政治家の責任、企業の責任、学校の責任、病院の責任等々です。
こういう言葉だけを見ると、日本も責任を自覚した素晴らしい社会になっているように聞こえるかもしれませんが、現実は耐震偽装の問題に見られるように、できる限り責任を回避しようとする姿ばかりを見るような気がします。
社会全体が「性格障害」に陥り始めているのではないかと不安になってきます。

「責任」という言葉が氾濫して「性格障害」が蔓延したのでは本末転倒ではないですか?
だからといって、僕は「責任」が重要でないと言っているわけではありません。
責任ある人たちがお互いに批判しあうのでなく、協力し合えるコミュニティづくりが必要なのではないでしょうか?
今回の事件に見られるように、これからますます外国籍の人たちの数は増えていくでしょう。
しかし問題は彼らが外国籍であることよりも、むしろ協力をし合っていけるようなコミュニティづくりにある。
そんなふうに今回の事件を見ることはできないでしょうか?
posted by SNR at 18:59| Comment(5) | TrackBack(1) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月17日

おカネの話題でしか盛り上がれない軽い国会なのか?

民主党の永田寿康議員による爆弾発言が物議を醸していますね。
ホリエモンが自民党武部幹事長の二男におカネを振り込むように指示した社内メールが、あるとかないとか。
もちろん事実関係の解明は行われるべきですが、果たしてこれは国会でいま議論されるべき大事な問題なのでしょうか?

「くどいようですが現代日本は軽い国家です。これを正視しなければいかなる議論もカラブリだと思います。たとえば、権力といっても権力ではない。自民党だって、握っているのはせいぜい利権というべきものといえるほどのものであって、権力ではない」

以前アップした「軽い国家の重い病?」の繰り返しになりますが、これは司馬遼太郎が35年以上前に書いた「日本史から見た国家」のなかの一節です。
「日本という国家にあるのは、せいぜい利権だけだ」というのは、今もあまり変わっていない現実なのではないでしょうか?
事件化した防衛施設庁の官製談合だけでなく、特殊法人への天下りは2万人を超えているといいます。
採算性だけでなく安全性まで疑問視されていたはずの神戸空港が開港しました。
BSE問題の自民党調査団がわざわざ同じ施設を調査しに行った目的は、民主党の主張をつぶすことだったようです。
そして、今回の「ホリエモン・メール」問題です。

ここ最近の政治はいったい誰の方を見て行っているのでしょうか?
おそらく政治家のみなさんは、みんな一様に「国民の方を見ている」と主張するでしょうが、いちばん大事なことは「国民によって構成される国家」を見て政治を行うことなのではないでしょうか?
上に挙げたようなことは、一部の利権のために行っていることとしか思えません。

「軽い国家どころか、国家という体をなしているかどうかわからない。…単に税金をとるだけの機関という感じの国家というものでしかないのではないか。ここにはきわめてたくさんの自由があるけれども、義務というものはほとんど銭金だけで済まされている。つまり税金だけでなりたっている国家になってしまった」

「銭金だけの軽い国家」」とは、単に税金をとられる国民の意識だけではないようです。
政治家や官僚だけでなく、最近は社会を揺るがすニュースすらも、おカネが絡むものがあまりに多いような気がしてなりません。
日本で国家や市民意識がしっかりと芽生える可能性については、司馬遼太郎も実は悲観的な見方をしています。
再び戦争でも起こらない限り、地方や企業を越えるような帰属意識にとどまるのではないかと考えています。

しかし、あれから35年の歳月が過ぎて、日本でもようやく「国家とは何か?」とか「市民社会とは何か?」という議論が芽生えて始めていると思います。
国会議員が利権やおカネの問題しか興味がないのであれば、次の選挙で「本当に国家のことを考えている議員」に投票すれば良いわけです。
トリノオリンピックの影で、「軽い国会」が行われていることも忘れてはならないのでしょうか?
posted by SNR at 19:56| Comment(4) | TrackBack(6) | 政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月15日

「ただのチョコレート屋」のまなざしで

トリノオリンピックで日本選手がなかなかメダルをとれませんね。
女子モーグル、スキーのジャンプ、スノーボード・ハーフパイプに、スピード・スケートと、あと一歩というところまでは行くのですが、なかなか期待のメダルには手が届きません。
残念だなと悔しい思いをしながら、夜更かしをしている寝不足さんも、たくさんいるのではないでしょうか?

「ただのチョコレート屋よ」
これは数年前に映画にもなったジョアンヌ・ハリス原作の『ショコラ』に登場する主人公ヴィアンヌの台詞です。
放浪のすえ村にたどり着いたヴィアンヌ母娘は「チョコレート屋」を開きますが、最初はなかなか受け入れてもらえません。
そんななか、村の老婆アルマンドが「でもね、あんたがきてくれて、あたしたちには楽しみができたのよ」と言い、それに対してヴィアンヌが「ただのチョコレート屋よ」と返したのです。

閉鎖的なフランスの片田舎の村にやってきたヴィアンヌは、「すべての人を幸せにしてしまう魔法のチョコレート」で村人のこころを解きほぐしていきます。
「わたしには、お客全員の好みがわかる。これはちょっとした才能、占い師がお客の手相を読む技のようだ」と述べているように、彼女は人々のこころの機微を読み人生を愛する喜びを与えていきます。

国は変わりますが、トリノが位置しているイタリアのピエモンテ州も、チョコレートの有名な産地です。
名物の「ビチェリン」をカフェで飲む姿が、テレビでも放映されていますね。
もうひとつ、トリノの南方に位置するブラという村は、「スローフード」運動の発祥の地でもあります。
あまりにスローな会場の建築ぶりから、オリンピック開幕前には開催を危ぶむ報道もありました。
そのほかにも、地下鉄が半分しか完成していなかったり、交通機関の不足などから会場間の移動に時間がかかったりなど、不満の声も出ています。
しかし、それはあくまでも日本の基準から見た不満であり、現地の人たちは「どれ、そんなに慌てないで、ゆっくりショコラでもいただきながら、のんびり見ていなさい」という雰囲気だったのかもしれません。

「あたえることには限界がない。それは人生の初歩的なレッスンで学べる真実ではないだろうか」 
ふたたび『ショコラ』に戻りますが、温かいもてなしで人のこころを解きほぐしていく「ただのチョコレート屋」のまなざしが、この言葉にあふれていると思います。
もちろん、選手のみなさんには全力を尽くしてがんばってほしいですよ。
でも、過度な商業主義やメダル至上主義に陥ってしまうとしたら、せっかくの平和の祭典を台無しにしてしまいます。
競技を見ている側の我々はチョコレートでもつまみながら、「何かを与え合い、共有するような気持ち」も持って観戦したいものですね。
posted by SNR at 17:55| Comment(12) | TrackBack(4) | 趣味・スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月13日

「記憶を失った街」は「こころを失った街」?

2月11日に、表参道ヒルズがオープンしました。
80年近くも表参道の顔であった同潤会青山アパートが取り壊され、そこに商業スペースと住居スペースの複合施設が建てられたのです。
同潤会アパートの取り壊しが議論されたことは、みなさんの記憶にも新しいことでしょう。

今回の設計を行ったのは建築家の安藤忠雄さんです。
安藤さんは同潤会アパートを同潤館という形で再現しただけでなく、本館内部のスロープは表のケヤキ並木と同じ勾配に、建物の高さもケヤキ並木を越えないようにすることで、これまでの景観とのつながりを維持しようと設計しました。

かねてから僕は東京には街づくりというコンセプトがまるでないと感じていました。
再開発が行われるたびに、バカのひとつ覚えみたいな塔が次々と建っていく様子に違和感を覚えていました。
別に金太郎飴のような街並みをつくれというわけではありません。
その街がもつ個性や価値というものを大切にした建物づくりが行われているようには、どうしても見えなかったのです。

2月10日放送の『ニュース23』における、筑紫キャスターと安藤さんの対話はなかなか興味深いものでした。
上述したような問題意識が繰り返し述べられていただけでなく、安藤さんが表参道ヒルズで実現したかった「風景を通じた現在と過去の対話」を行うことの大切が伝わってくる内容でした。
また長寿社会に向かっている今日だからこそ、単に街の機能性を追及するだけでなく、そこに長く住む楽しみを重視すべきだという主張もうなずけるものでした。

話が少し飛躍するようですが、街を次々と無計画につくりかえることは、その街に暮らした人の記憶やこころを奪っていくのと同じようなことだと思います。
なぜ我々は敢えて街並みから「記憶やこころ」を払しょくしようとするのでしょうか?
海外旅行などに行けば喜んで歴史的街並みを見物する人たちが、なぜ自分たちの街並みをいとも簡単に捨ててしまうのでしょうか?
自分たちの「記憶やこころ」を軽んじるようなことをするのでしょうか?

もちろん、木造建築物が焼失や腐敗に弱いこともひとつの要因でしょう。
あるいは、古い建物を維持したり、再現したりするコストが高いことも要因のひとつでしょう。
しかし、そこで失われる我々の「記憶やこころ」にもうちょっと配慮をしても良いのではないでしょうか?
少なくとも耐震基準に満たない無価値なマンションを乱立させるよりも、はるかにマシなことだと思います。

丸の内にも三菱一号館の再生計画があるようです。
街の持つ「記憶やこころ」を重んじる機運が高まることで、単に耐震基準を満たしているだけでなく、後世にも我々の「記憶やこころ」を伝えていけるような建物づくりが進むことを願います。
posted by SNR at 21:30| Comment(9) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月10日

「品位なき戦い」の数々

ニュースではあまり大きく取り扱われませんでしたが、昨日の予算委員会が空転して審議ストップとなりました。
自民党の菅原一秀議員が、予算案についてのほとんど質問をせずに、一般的に民主党の批判を展開したためです。

国会が少しでも国政を良くするために議論を行う場であることは、子どもでもわかる常識だと思います。
予算委員会が予算の審議を通じて、国政に関わる重要問題を議論する場であることも論を待たないでしょう。
いくらBLT4点セットなどで追い詰められているとはいえ、あまりにも品位に欠けた態度には開いた口がふさがりませんね。

最近のニュースを見ていると、見ていられないものが多くありませんか?
耐震偽装マンション問題では、関係者がそろって責任のなすり合い。
東横インの不正改造問題でも、無責任記者会見の後は中身のない謝罪会見。
ライブドア問題では、手段を選ばぬ株式時価総額つり上げ。
これらは「市場経済原理主義」などという言葉だけで片づけられる問題なのでしょうか?
抜け道や盲点があれば道徳など見て見ぬふりをして開き直る。
ここには品位のかけらも見当たりません。

「品位なき戦い」が繰り広げられているのは、どうやら日本だけではないようです。
イスラム教の預言者「ムハンマド」を風刺した漫画が、イスラム教徒の怒りを爆発させました。
さらに問題を激化させたのが、フランスの漫画新聞『シャルリー・エブド』紙による掲載。
通常売り上げ14万部の同紙は、この特集号で47万部もの売り上げがあったそうです。
「表現の自由は守られるべきだ。風刺の権利もあるし、自由もある」というのは、同紙の編集長バル氏の発言。
「表現の自由で人のこころを傷つけても構わない」とは、ジャン=ジャック・ルソーも驚く品位のレベルなのではないかと思いませんか?

ベストセラーのひとつ『国家の品格』では、品格についての4つの指標を挙げていますが、そのなかのひとつが「高い道徳」です。
品位と品格では多少言葉の意味が違うのかもしれませんが、「高い道徳」というのはどちらにも通ずるものだと思います。
戦前の駐日フランス大使、ポール・クローデルは昭和18年に、こう述べました。
「日本人は貧しい。しかし高貴だ。世界でただ一つ、どうしても生き残って欲しい民族をあげるとしたら、それは日本人だ」
決して戦前の体制や戦争を賛美するわけではありませんが、この言葉に誇りを持てる日本社会はどこへ行ってしまったのでしょうか?
posted by SNR at 21:13| Comment(6) | TrackBack(3) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月09日

あらためてプロとは何かを問う

「作為的でないということだけ言っておきます。そのために戦いますよ。技術者として絶対に負けませんよ!」とは、サムシング元社長の仲盛昭二建築士の発言です。

サムシングは1997年から1999年にかけて、福岡市内の構造計損の6割を担った建築事務所で、新たに偽装の疑いがある木村建設施行の物件があることが判明しました。
つまり、以前から懸念されていた耐震設計基準を満たさない「非姉歯」物件の存在が判明してしまったのです。

僕がここで敢えて「物件の存在が判明してしまった」と書いたのには理由があります。
それは福岡だけでなく、熊本県でも新たに偽装の疑いがある物件が判明したからです。
国土交通省が構造計損書の点検の結果、偽装なしと判断したにもかかわらず、木村建設施行の「非姉歯物件」から6件も、耐震偽装が行われていた疑いがもたれています。
この事実を以前から把握していたにもかかわらず、熊本県が公表していなかったことが明らかになったのです。
「厄介な物件の存在が判明してしまった」という態度がありありではないですか?

以前、耐震偽装問題が発覚したばかりの頃、「プロフェッショナリズムはどこへ消えたのか?」にも書きましたが、今回の報道を見てあらためてプロフェッショナリズムとは何かを問いたいと思います。
偽装の意図があったのかどうかについては敢えて問いません。
それにしても、問題が発覚した後の対応が問題なのではないかと思います。
仲盛氏の「作為的に偽装はしていない」という主張にしても、熊本県の「情報を積極的に開示しなかったこと」にしても、プロフェッショナルとしての視点が大いに欠けているのではないでしょうか?

サムシングの仲盛建築士は、ただ自分が偽装をしていないという主張の一点張りでした。
プロフェッショナルな技術者としての戦いは、自分が作為的な偽装をしていないと主張をすることだそうです。
たとえ姉歯氏のような偽装を作為的に行っていないのであっても、自分が手がけた物件に瑕疵があるかもしれないのであれば、まずは住民に対して不安を与えたことについて謝罪の気持ちがあって然るべきなのではないでしょうか?
熊本県の偽装隠しも同様で、自己保身以外の何ものでもないでしょう。
自分たちが設計したり、あるいは管轄したりしている物件に対する責任感は、彼らの態度のどこにも見られません。

本来のプロフェッショナリズムとは、自分が扱ったものに対する愛着や誇りを持ち、最後まで責任を貫こうとする態度にのみ宿るのではないでしょうか?
そういう精神を持っているのであれば、何よりもまずそこに住んでいる住民のことを考えた発言をするのが当然ではないでしょうか?
確かにマスコミは安易に悪者探しに走る悪い傾向があります。
それでもプロであるならば、もっとも大事な点は「作為の有無」ではなく、「建物の安全性と住民の安心」であることくらい分からないのでしょうか?
嗚呼、日本のプロフェッショナリズムはどこへ行ってしまったのでしょう。
posted by SNR at 23:05| Comment(7) | TrackBack(7) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月08日

軽い国家の重い病?

病の軽重は分かりやすいが、国家の軽重をどうやって判別するのか?
そう思われる方も多いかもしれませんね。
一口に「軽い国家」と言っても、十人十色でさまざまなイメージを持つのかもしれません。

日清戦争に新しい時代の息吹を感じて舞い上がった正岡子規を、「新品国家が最初の外戦をしたために肺病やみのこの文学者までが無邪気きわまりない昂揚を見せた」と評した司馬遼太郎は、「昭和に入って国家は重くなった」と述べました。
「明治のひとびとにとってときにロマンティシズムの源泉でありえたような存在ではなくなり、国家そのものが狂気の思想と道徳をもち、それを好まぬ国民には牢獄を用意した」というわけです。
軍国主義と対外拡張に走った国家権力のあり方そのものというよりは、人々の意識における国家の重みを論じているわけです。

国家の軽重について、司馬遼太郎はさらに続けます。
戦後、急に国家が軽くなった。…その(保守党政治の)政治意識といえば地方や職域の利害や遺族会や農業団体などのぶんどり意識だけであって、国家というこのきわめて形而上的な思考を要する概念はとらえがたいものになった」と。

司馬遼太郎がこのように述べたのは1969年のことです。
あれから37年もの歳月が経ちましたが、国家の軽重はどうなってしまったのでしょうか?
「偽りの議員年金廃止法」や「防衛施設庁による官製談合」と、あまりに国家をなめたような問題が次々と明るみになっています。
ちょっとでも隙があれば、国家の公金をだましとって私服を肥やそうという意識は議員や公務員ばかりにとどまりません。
東横インによる違法改築では、税制上の優遇措置を利用して税金をだまし取っていたことになります。

2月7日放送の「ワイド!スクランブル」をご覧になった方はご存知でしょうが、独立行政法人への海外天下り出向を通じて私服を肥やす官僚もいるのです。
海外に赴任すると、民間人は渡航先の現地政府に対する、公務員は日本政府に対する納税義務を負っています。
しかし、独立行政法人による海外赴任者の多くは現地政府に対する税金を法人が肩代わりしているため、本人は一銭も税金を納めないという特権が生まれているのです。
もちろん、法人が肩代わりしているお金は日本国民の税金から支払われているのです。

番組では2001年に日本労働研究機構パリ事務所に出向した、厚生労働省出身の官僚(40歳)のケースが紹介されていました。
本給672万円に倍以上も上乗せされた諸手当で年収が1800万円以上もある上に、パリ市に支払う住民税までもが税金から捻出されているのです。

ここまでくると、ほとんど病気ですね。
こういう人たちの意識のなかで、国家の重みはどう認識されているのでしょうか?
まさに「軽い国家の重い病」とは言えないでしょうか?

「われわれはいま、体制・反体制というようなあやしげな言葉の魔術にまどうことなく、もう一度国家というものを考えなおし、この文明の段階にもっとも適合した国家というものをわれわれの手ですこしずつ作りなおしにとりかかってみる必要があるのではないか。そういう覚悟をもたない政治家は容赦会釈なしにひきおろしてしまう必要があるのではないか」
この声は政治家の耳に届いているのでしょうか?
posted by SNR at 20:15| Comment(4) | TrackBack(5) | 政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月07日

「くにのかたち」を論ずること

「小泉総理が皇室典範改正を急いでいる」
「自民党内に党議拘束をかけてでも、通常国会での成立を目指している」
「場合によってはポスト小泉の政局に影響をしてくる」
連日、こういう報道がテレビから流れてきますが、違和感を覚える人は少なくないのではないでしょうか?
南北朝時代に逆戻りとまでは言いませんが、天皇制の正統性をめぐる政局争いなど誰が望んでいるでしょうか?

こんなことを考えていたら、秋篠宮妃紀子さまのご懐妊報道が飛び込んできましたね。
これはものすごいタイミングですよ。
「神風」でも吹いたかと思いたくなるくらいですね。
などという冗談はさておき、僕自身は現在問題となっている「女系天皇」に賛成ですが、性急な皇室典範改正には反対です。

理由はきわめて簡単です。
@通常国会で議論しなければならない問題は、もっとほかにたくさんある。
A一部の有識者会議による議論を圧倒的多数の与党の下で有効な議論もしないまま決めてしまうべきではない。


「もっとほかにも議論すべきことがある」というのは、これまで何回も述べていることです。
「人口減少時代」「格差社会」「財政再建」「安全神話の崩壊」など、早急に取り組むべき問題に事欠かないことは、みなさんもよくご存知のことと思います。

しかし、それ以上に大事なことは、日本が民主主義国家であるということではないでしょうか?
日本国憲法の第1条を思い出してみてください。
「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」
日本の象徴天皇制を支えているのは、我々国民の総意なのです。

現在問題になっているのは、「女系天皇」を認めるかどうかということです。
愛子さまが天皇になること、つまり「女性天皇」についてはこれまでも先例があり、多くの国民も賛成しています。
「女系天皇」とは父方の家系が天皇家につながっていないことを意味するもので、具体的には愛子さまの子どもが天皇に即位できるかどうかという形で表れます。
いま皇室典範の改正に慎重な人たちは、これまで守ってきた「男系天皇」の伝統を壊すことに異を唱えているわけです。

日本国憲法が男女同権を規定している以上、僕自身は女系天皇になっても構わないと考えています。
ちなみに、最近行われたJNNの世論調査では、女系天皇を認めるという人が65%(男系天皇に限るという人は24%)と多数を占めました。
しかし、「男系」「女系」の議論について国民の議論がどこまで進んでいるかといえば、まだまだ十分に浸透していないというのが現実ではないでしょうか。
国民が十分に議論しないまま決めてしまうほうが、よっぽど天皇制の正統性に傷をつけることになるのではないかと心配してしまいます。

天皇制について考えることは「くにのかたち」を論ずることと同義だと思います。
だからこそ日本国憲法で定められているわけです。
そして、日本国憲法のもっとも大事な精神のひとつが「民主主義」なのです。
「くにのかたち」をじっくり議論する機会を国民に与えること、このことこそが民主主義国家日本のもっとも重要な「くにのかたち」なのではないでしょうか?
生まれくるお子さまが男の子でも女の子でも、国民みんなで祝福したいですね。
posted by SNR at 22:45| Comment(5) | TrackBack(28) | 政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月03日

国会議員はやっぱり拝金主義なのか?

BLTをめぐり国会で激しい論争が続いているのかと思いきや、
攻めるはずの民主党から傷害容疑で書類送検される議員が出てきてしまいました。
一方で、皇室典範改正をめぐり政局をにおわすような発言も見られるようです。
それにしても、なぜ皇室典範改正をそう急がないといけないのか、僕にはよく理解ができないのですが…。

そんなどたばた劇に目を奪われているうちに、驚くべき悪法が成立してしまいました。
名ばかりの「議員年金廃止法案」です。
法案の内容を簡単に要約すると、以下のようになります。

@OBは4〜10%削減して給付継続
A在職10年以上の現職議員は、「現行の85%で年金支給」か「納付金総額の80%を返還」を選択
B在職10年未満の現職議員は、納付金総額の80%を返還


これで「議員年金廃止」とは聞いて呆れますね。
OB議員には支給を続けるだけでなく、Aの在職10年以上の議員は間違いなく「現行の85%で年金支給」を選ぶに決まっているじゃないですか!
この先、何十年も国民の税金を垂れ流し続けるというムダ遣いを決めたのに等しいわけですが、問題はそれだけではありません。
在職10年未満の議員たちにも、「退職金制度」の創設が検討されているのです!
こうなってくると、怒りを通り越して笑うしかないですね。
国会議員の数ですら多すぎると多くの人が思っているなかで、
半永久的に税金を垂れ流し続ける仕組みをつくってしまったのですから。

もともと、「政治家はおカネに汚い」というイメージは多くの人が持っていました。
汚職事件まがいのものはしょっちゅうですし、政治資金の流れにはまだまだ不透明な部分がたくさんあるようです。
しかし、ここまで平然とやられると唖然としてしまいます。

ホリエモン逮捕以降、「おカネで何でも買える」というような風潮を省みようという空気が生まれてきています。
自民党の古くからおられる議員にも、公然とそういう風潮を批判するコメントを出している人たちがいました。
表向きホリエモン批判をしている人たちが、国民の目が届かないところで「議員拝金法案」とでも呼ぶべきものをつくっていたのです。

ホリエモンと違い、国会という神聖な場で合法的に行ったことなのだから良い。
そんなふうに彼らは考えているのでしょうか?
この国は本当にどうなってしまうのか、みなさんは不安に思いませんか?
posted by SNR at 23:11| Comment(14) | TrackBack(10) | 政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月01日

発言の耐えられない軽さ

「警察に捕まったら仕方ないし。…そんなに悪いことかなあと思っている」
「車でいうと60kmのところを、67〜8kmくらいで走っても、まあイイかって」

建築確認を受けた後で、障害者用の設備を取り壊して改装していた東横イン西田憲正社長の発言です。
昨年も姉歯建築士の発言、ヒューザー小嶋社長の発言などに驚きましたが、
まだまだ、こんな発言をするキャラクターもいたのかという感じで話題になりましたね。

政治家の発言もいい加減なものが目立ちます。
ホリエモンの選挙応援問題では、小泉総理は責任がないかのような発言をして、後で形成が悪くなると撤回。
BSE問題で追及された中川昭一農林水産大臣は、朝令暮改のあやふや答弁。
「人生いろいろ」、「自衛隊が活動している地域が非戦闘地域」などと、小泉総理だって「失言王」森前総理に負けないくらいの発言を繰り返しているのですが…。

個々の発言の背景にある政策については、みなさんそれぞれ意見があるでしょうが、
やっぱり気になるのは、テレビから流れてくる本来ならば責任ある方々の発言が、あまりにも軽いものとなっているのではないかということです。

「言論を大切にし、言論に責任を持たないで、まともな政治ができるはずがない」
毎日新聞の岩見隆夫氏が書いていましたが、こんな状況で本当にまともな政治が行われているのだろうかと心配になってきてしまいますね。
企業だってトップが発する言葉に責任をもたなかったら、「企業の社会的責任(CSR)」なんて成立しうるはずがありません。

「重さは本当に恐ろしいことで、軽さは素晴らしいことであろうか?」
亡命チェコ人作家のミラン・クンデラは、代表作のひとつ『存在の耐えられない軽さ』のなかで問いかけています。
ミラン・クンデラはプラハの春の失敗を受けてフランスに亡命。
1989年のビロード革命以後もフランスにとどまり作家として活動している人で、彼の作品の多くは共産主義の重苦しい政治支配と激動の時代を舞台背景としています。
クンデラは続けます。

重荷が重ければ重いほど、われわれの人生は地面に近くなり、
いっそう現実的なものとなり、より真実味を帯びてくる。
それに反して重荷がまったく欠けていると、人間は空気よりも軽くなり、
空中に舞い上がり、地面や地上の存在から遠ざかり、半ば現実感を失い、
その動きは自由であると同時に無意味になる。


先ほど責任ある人たちの発言が軽くなったと述べましたが、背景にはその発言を受け取る社会があるわけです。
東横イン社長の発言を聞いて、「ひどい」、「おかしい」と思いながらも、思わず苦笑してしまっている人たちがいるのではないでしょうか?
ちなみに、情けないことに実際に僕も苦笑してしまいました。
どうやら我々の社会全体が「軽はずみなもの」になってきているような気がします。

もちろん、言論統制の効いた重い抑圧の時代に戻りたいわけではありません。
だからといって、「自由に発言すること」と「無責任な軽い発言をすること」が、同義ではないでしょう。
軽くて自由ではあるが無意味な社会になっていって良いものかどうか、そろそろ考えてみる時期にさしかかっているのではないでしょうか?
posted by SNR at 19:21| Comment(10) | TrackBack(4) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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